その他

□名残
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深夜二時。玄関を出た所ではたと気付く。さっきまで鬱陶しいくらい降っていたはずの雨が止んでいた。路に視線を落とすと、アスファルトはほとんど乾いてしまっていて、端の方に僅かに湿りを残すのみだった。
(……あんなに降ってたのに、もう……名残しかない)
金の髪の青年はきゅっと眉を寄せる。乾いて薄色になった地面から意識的に視線を上げて、歩く足を速めた。




コンビニで適当に酒を買って帰る。来た路を戻る途中、視線が再び下がる。
いつの間に雨は止み、いつの間に地面は乾いたんだろう? もう夜も遅いから、もしかしたら乾きに気付いたのは野暮用で出掛けた自分だけかもしれないと、青年はちらりと考えた。だがこの弱々しい湿り気などはすぐに全て乾いてしまうだろう。誰にも知られずに消えていく雨の証。



「ガイラルディア!」
「ッ!?」
ぼうっとしていた青年はいきなり呼ばれた自分自身の名にびくっと背筋を凍らせる。
駆けてきた褐色の肌の男は動揺している青年に遠慮なしに飛びついてきた。
「ちょ、な、何を…!」
後ろから抱きすくめられて青年は暴れた。いくら深夜だからって人が通らないとは限らない。男はそんな青年を力で抑え込んで、気持ちよさそうに青年の柔らかな髪に擦り寄る。
「石鹸の匂いがする」
「…!」
頭に血が上る。
「んー? 何だ酒ばっかり。一人で飲む気だったのか? ガイラルディア」
「や、やめて下さい…!」
長い腕がビニール袋を漁る。こんなの失礼にも程がある!
「貰うぞ」
ひょいと一缶奪い取ると男は漸く青年から離れた。青年はよろける。だがそのまま男から走り去る。数分もしない内に自分のアパートまで辿り着くが、ドアを閉めようとした時バンッと何かに遮られた。男の指がドアを掴んでいる。
「入れてくれよ、ガイラルディア」
「嫌だ!…つかその名前で呼ぶなって何度言えば解るんだよっ…」
ぐぅぅっと力一杯ドアノブを引っ張るが男の力も比例するように強まる。平行線状態。
「聞き入れられんな。おまえの名だろう」
「……その名前は捨てたんです。帰って下さい…!」
「嫌だ。せっかく会いに来たのに………ちょ、いていててそろそろやめねーかコレ」
「どうぞ離して下さい。その酒はあげますから」
「頑なだな。…一人で酒なんか飲んだって、寂しさはまぎれんぞ」
「!」
ぎくり。――瞬間、油断した。
「ぅわっ…!」
ドアが全開になって、男が即座に侵入してくる。急に近くなった顔に目を白黒させる青年は男の抱擁も口付けからも逃れる事ができなかった。
「うっ!……っン」
ガシャンと音を立ててビニール袋が落ちる。中から酒缶が転がり出てくるが、それを拾わなければなんて意思は男の舌により思考から締め出されてしまった。ぬめりを帯びた濃厚すぎるキス。舌を絡められ、吸われる。ぞくぞくと舌が頬が腰が痺れて、青年は子供がぐずるように身を捩った。いつしかずるずると玄関に座り込んでしまったが解放されなくて、一緒に膝をついた男の背中に腕を回し、ぎゅっと服を掴んで甘く強すぎる刺激に耐えた。
漸く唇が離された頃には―――青年の顔はとろとろに溶けていて、男は満足そうに笑った。最後の締めにちゅっと音を立てて唇を吸ってやると、青年は可愛らしく息を漏らした。
「ガイラルディアはキスが好きだな」
「………か…えって、下さい…」
「喋ると可愛くない口だ。愛情の裏返しか?」
「違う……きら、ぃ…」
「嫌いな相手からのキスで腰砕かすのかおまえは」
「くっ……」
男の言う通り腰に力が全く入らず、立ち方が分からない。せめて、ぐいぐいと男の肩を押し返した。男は退き、酒を拾い始める。
「また大量に買ったな。全部一人で飲む気だったのか?」
さっさと室内に歩を進める男に慌てて、青年は這うように後を追う。
「か、勝手に…上がっていいなんて、言ってない!」
「何だ、立てないのか? 手を貸してやろうか?」
「………っ」
どうしていつもこう話が噛み合わない! 青年は半ば強制されて男の不法侵入を許してしまう。
勝手に酒をテーブルに並べてつまみはないのかと冷蔵庫を開ける楽しそうな男に、青年は口答えを諦めた。
「………何しに来たんですか?」
「ん? そりゃあ、ガイラルディアが一人で寂しがってるんじゃないかと思ってな」
「……っ」
胸が詰まる。さっきも、そんな事を言ってた。
(どうして……どうしてこの人)
青年は笑顔が得意だった。だから誰にも、気付かれた事はなかった。なのに。
「おまえに会いに来たんだ」
(……わかるんだ、都合良く)
男が青年の腕を引き上げる。青年は、今度は抵抗なしに、その逞しい腕に寄りかかるようにして両足をたどたどしく床に立たせた。そして離れていこうとした褐色の肌を、引き止める。今まで決して自発的に触れようとはしなかった青年の縋りつく手を男はぽかんと見つめた。
「ガイラルディア…?」



彼がもしこのまま変わらず名前を呼んでくれたなら、"ガイラルディア"はこの世界から決して消えはしないだろう。
誰も知らない、自分さえ捨ててしまったこの名を呼び続ける彼こそが、青年がかつて"ガイラルディア"だった名残そのもの。
―――それも、とても強靭な。



「ガイラルディア。おまえ他の奴らの前だとあんな人懐っこく笑うのに、俺の前じゃ全然笑わないな。俺が嫌いか? それともそれが本当のおまえなのか?」
男の指が甘ったるく頬を撫でる。それがくすぐったくて心地よくて、酒のせいでほんのり赤味を帯びた肌をガイラルディアはふるりと震わせて。
「それとも、俺が好きすぎて、そーなっちゃうのか? ん?」
「………しらない」
調子づく男からぷいっと顔を背けた。



end

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