その他

□グランコクマのとある日常
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「陛下――――!!! いい加減にしてください!」

一国の長の部屋から弾けたように飛んできたのは、そんな声。
怒声だ。それ以外の何でもない。しかも、一国一城の主の部屋から。それは、いわゆる家族の大黒柱のお父さんを差しているわけではない。本当の、一国の主の部屋からの、しかもその本人を怒鳴りつけた声だった。おまけに「がふぅっ」という主のくぐもった悲鳴のようなものまでがわずかに怒声から零れていた。
由々しき事態、だ。なのに、臣下達は大きな声にびくりとしただけで、問題が起きている様子の主の部屋に駆け込む様子はない。つまり、主の身を案じる者がいないのだ。
だが決して主が臣下に愛されていない訳ではない。臣下に危機感が欠けているという訳でもない。
主の部屋から弾け飛んだ怒声も、主の悲鳴も。この国では馴染みある一幕のひとつ。
そう。それは、
『日常茶飯事』



「いっ…、ガ…ッ、おま、あたま……かってーな…」
主は、ピオニー・ウパラ・マルクトは、頭をぐぅぅと押さえ込んで、ベッドで蹲っていた。正確には、ベッドに寝転がっている青年の上で、だ。
青年は、ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは、ピオニーの体を自分から下ろしながら、ちょっとだけ痛む前頭骨をさすった。何故痛むかって。それは部屋に入るなりいきなりベッドに押しつけてきた主人に頭突きを食らわせたためだ。微妙に涙が出たが、ピオニーが顔を伏せている間に拭い去る。今度という今度は、弱い所は見せられない。
「陛下、お戯れもいい加減になさってください! 今日仕上げるはずの書類はどこですか!」
「書類なら、執務机の上だ」
「そんな事分かってます! 俺が聞いてるのは、仕上がった書類はどこだって事ですよ! 机の上の書類は、どう見ても俺が持ってきたまま、手付かずのようでしたけど?」
「そうだったかー?」
とぼけるピオニーにかちんとくる。
「陛下……約束しましたよね? 今日中に書類を片付けるって」
「焦るなよガイラルディア。今日が終わるまで後何時間あると思ってるんだ」
そんな事より、と褐色の手が再びこちらに伸び、ぐんっと顔を寄せられる。端正な顔、それに海原の瞳が急に目の前まで迫ってきて、ガイは飛び出しそうになった心臓をぐっと飲んだ。
「おまえに触れてからでも遅くあるまい」
そう囁いた皇帝の息遣いが直接肌に触れた。それに震える間にそれがもっとはっきりとした感触へと変わった時。
ぷち、と。何かが弾け飛んだ音を聞いたような気がした。

「もう――――……っ、今日という今日は、愛想がつきましたっ!!」

そして本日二度目の悲鳴と怒声が、宮廷に響き渡る事となったのだった。







「今ある仕事を全部持って来いだなんて急に言い始めたと思ったら、そういう訳だったんですね。いやぁガイには感謝しないと」
そうにこにこと笑うのは、ジェイド・カーティス。彼はそれはそれはにこにことして、新たに持ってきた書類をピオニーの机にどさりと置いた。それを一瞥したピオニーが鬱陶しそうに息を吐き、
「腹の立つ顔で笑うな」
なんて言うからアスラン・フリングスはジェイドへの同意の為に浮かびそうになっていた笑いを引っ込めた。
「俺はちゃんとあの日に片付けると約束した仕事はすべてやりあげたんだぞ! それなのにあいつ、すっかり機嫌を損ねちまってちっとも会いに来ねえ」
むすー、と頬を膨らませる子供のような顔で、アスランの淹れた紅茶を飲む。主の口に合うかどうか、アスランは思わずその様子をじっと見つめてしまうが、ピオニーはそれに気付かずにごくんと喉を動かした。
「ご機嫌取りの為でしか仕事に精を出さないなんて、駄目な人間の代表ですね」
「さもしい言い方をするな。誠意と言え」
「そうですか、いややる気があるようで何よりです。ではその誠意とやらでとっととそれ片付けてしまってください。追加の書類の置き場所に困ってるんですよ」
「なっ…、何でそんなに仕事があるんだ、ここしばらく俺がどんなに真面目に働いたと思ってる!」
「陛下が次々に仕事を上げてくださるのでその分を前倒しにしているんですよ。怠け者が働くと言っているので皆喜んでます。頑張ってくださるんでしょう? 『誠意』で」
「帰れ! おまえのその嫌味ったらしい笑顔を見てると動く手も動かん!」
「熱心なのは結構ですが、謁見の時間までにはその怖い顔を何とかしてくださいね?」
「やかましい! アスラン、もう一杯だ!」
「は、はい」
ジェイドを追い出す仕草をするピオニーに落ち着いてもらうため、アスランは慌てて紅茶を注いだ。しかしその口元には、抑え切れなかった微笑が零れてしまう。
いつもはここまで頬が膨れてしまったらやる気が失せたと言って、ソファに転がったりペットのブウサギと遊び始めたりしてしまう主だ。しかし今日は執務机から離れるどころかペンすら握ったまま。理由はどうあれ、意欲的な主の姿を見られるのは臣下として幸せな事だった。アスランはピオニーを見つめる瞳の奥で、やっぱり伯爵にお礼を言わなくてはとひっそり思った。







(疲れたな…)
ブウサギの散歩を終えたガイは城前広場へ戻ってきた。体格の良いブウサギを6匹も連れて歩くのだ、…否、時には引っ張り時には引っ張られたりするのだ、散歩とはいえかなりの力仕事になってしまう。しかし、それはすでにグランコクマへ移ってきてからのガイの日常となっていた。最初こそしんどかったがもう慣れたもの。…なのだけれど、ガイはとても疲れていた。
…それというのも。

「ガルディオス伯爵! ありがとうございます!」
「陛下はとても熱心に執務に取り組んでおられます。ガルディオス伯爵が陛下に進言してくださったおかげです!」
「私共も陛下に恥じぬ働きをしていきたく思います。本当にありがとうございます、伯爵!」

「……ははは」

城の関係者に会う度に浴びせられる拍手喝采。これをひきつりながら受け入れたのは何度目だろうか。
何度も何度も頭を下げ清々しい笑顔で感謝の意を述べる彼らからようやく解放された頃、ガイはまた深い溜息を吐いた。
(いい事じゃないか…何疲れてるんだ俺は)
怠け癖のあるピオニーが真面目に、仕事を前倒しにするほど熱心に、働いている。
皆がさすが我らの皇帝だとピオニーを称え、その一方でそれは自らの姿勢を見つめ直す機会となったようで、なんだかんだ皇帝のみでなく宮廷全体の執務の効率が上がっているらしかった。
…すべては、ガイがピオニーに会わなくなった事がきっかけ。
「ガルディオス伯爵」
「あ…フリングス少将」
ぐるぐるとした思考からはっと顔を上げると、少し向こうから白銀の髪が近付いてくるのが見えて、ガイは慌てて笑顔を作った。しかしアスランは何かに勘付いたように小首を傾げる。まずい、少将は妙なところで人の感情の機微に敏い。
「公務お疲れ様です」
「俺はただこいつらと一緒に散歩してるだけなんで、そう言っていただくとなんだか悪い気がしますよ」
「ブウサギが元気でいると陛下のお心が慰められます。だからブウサギの世話も立派な公務ですよ」
そう言って微笑むアスランにガイも思わず頬を緩める。
「伯爵、少しお疲れですか?」
あ、やっぱりばれてた。優しい気遣いのあふれる瞳に、ガイはじんわりしたあたたかみを覚える。
「こいつらこの図体ですからね。結構体力勝負なんですよ、散歩も」
「あ…よければ、いくつかリードを私に」
「あ、大丈夫です、すみません。お気遣いなく」
冗談めかして見せたら本当に心配されてしまい、慌てる。困った。この人の前では嘘をつきにくい。
つきにくい、し。
つい、本音を吐露してしまいたくなる。
そんな雰囲気を彼は持っている。
少し迷った後、ほんのちょっとだけ、ガイはアスランと話してみる事にした。
「陛下は…お元気なんですね」
「あ、はい。常とはお人が変わられたように机に向かっておられますよ。ガルディオス伯爵のおかげだと、皆喜んでいます」
「俺は何もしていません…。ただ陛下の側から離れただけです」
それは、何気なく口にしたつもりの言葉だったのに、いざ自分の口からそれを発すると、途端にガイの胸に暗い影を広げた。急に表情を曇らせたことでアスランが困惑するのが分かるのに、ガイはいつもの調子で取り繕う事ができなかった。
最初の数日は、本当に怒っていたのだ。悪ふざけのすぎたピオニーに灸をすえるつもりで接触を絶った。でも、いざ自分がいなくなったら、陛下はまるで憑き物が落ちたように公務に励んでいると言うじゃないか。城の者からそれを聞き、ありがとうありがとうと礼を言われ続ける内に、ガイはピオニーの元へは近寄れなくなっていった。
「びっくりしましたよ。陛下が公務を頑張っておられると聞いて。俺が傍で口やかましく言ってやらないと陛下は怠けてしまうと思って今までそうしていたのに。……俺は陛下の足を引っ張っていたんでしょうか」
「え…?」
「陛下は…俺がいない方が………」
ずきり。
そんな音がしたかと思うくらい、胸が痛かった。

「すみません、変な事を言ってしまって」
「そんな…」
「はは、今のは忘れてください。じゃあ、俺はそろそろ宮殿へ戻ります」
しゃべりすぎた口を無理矢理笑みの形に曲げた。
自分が情けなくて。困らせてしまったアスランの顔を見上げる事もできなくて。
ガイは表情を隠すようにうつむいたまま、アスランへ背を向けた。
「本当にすみません。俺は、これで…」
「伯爵」
おだやかな声がすっと耳を掠める。
振り返ってみると、白銀の睫がやわらかく笑んでいた。
「陛下はとても頑張っておいでです。褒めて差し上げてください」
でも、と開こうとした口は、笑みを深くした銀色にさえぎられた。
「大丈夫ですよ」
と続けてくれた優しい声に送り出されて、ガイは宮殿へと戻った。

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