桐壷
□第一章
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帝は、独り物想いにふけっていた。
彼には大勢の女御や更衣が仕えており、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)との間には、皇子までいる。
だが、これと言って心から愛しいと思う女性には、巡り会えずにいた。
いつか、その様な人と巡り合いたいものだとは思っているのだが、いまだにその願いを叶えられずにいるのだった。
そんな、ある日の事である。
朝、帝は女房達に手伝われながら衣を着ようとしていると、ふわり、と沈(じん)の香が漂ってくるのを感じた。
沈の香でも最高級の物を伽羅(きゃら)と言うが、それに勝るとも劣らない上品さ、爽やかさである。
「いつもの香ではないな。誰か、新しい者が香を焚いたのか」
主上(しゅじょう)の今日のお召し物に、香を焚いた者。
新しい者……。
その場に居た女房達は、思わず顔を見合わせる。
色鮮やかな唐衣(からごろも)に身を包み、どこか淋しげな微笑みを浮かべた、新参者の更衣の事を、女房達は思い出していた。
年長の女房が、とりすまして答える。
「その様で御座います」
帝は、どの様な者が、こんなに心に沁みいる様な香を焚いたのだろうか、と思う。
それからは、朝、衣に腕を通す瞬間が、段々と楽しみになってきた程だ。
あの柔らかで上品な沈の香が漂ってくる度に、帝はほっとした安心感を覚え、今日も一日政務を頑張る気持ちになるのだった。
そして、物想いに耽っていた帝は、ついにその一言を口にした。
「どこの女房が、私の衣に香をたきしめたのか」
そして、新たな恋が始まろうとしていた。
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