桐壷
□第一章
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帝が、衣に香を焚きしめるのは一体誰か、という発言をした事により、一部の女房達の間では、桐壺更衣が今上(きんじょう)の御目に留まったのではないか、と噂されていた。
そんな事はつゆ程も知らずに、桐壺更衣は今日も、帝の衣服に香を焚きしめていた。
こんなにご立派な衣に腕をお通しになる主上(しゅじょう)は、一体どんな御方なのだろうか。
同僚の更衣や女房達が、高い声で騒いでいるのを何度も耳にしていた。
まるで、絵物語に出てくる方の様に美しく雅びで、御人格も心から尊敬するに値する方だ、と。
私には、雲の上の様な御方だわ。
そう思っていても、帝の為に衣に香を焚きしめる、この時だけは、まるで主上の傍にお仕え申し上げている様な気持ちになるのが、不思議だった。
桐壺更衣は、沈の香りがする衣を、人知れずそっと胸に抱きしめる。
嫌だわ、私ったら。何を考えているのかしら。
そう言えば、あれはどちらの御方なのだろうか。
朝になって女房が部屋の戸を開ける。
すると簀子(すのこ)の上に、可愛らしい花と結びつけられた文が置いてあるのである。
高貴な生まれの公達(きんだち)であるらしく、いつも高価そうな御料紙に、素晴らしく流麗な文字で、自分への想いが綿々と綴られているのだった。
父亡き今、大した後ろ盾も無い私などを娶りたい、と仰る方も珍しい。
しかも手紙の主は、自分が何処の誰であるかも一向に記していないのである。
しかし、文の内容はとても心のこもった物で、読んでいると此方がはっとさせられる事が何度もあった。
大切な螺鈿(らでん)細工の文箱には、その差出人不明の文を、一つ残らず大切にしまってある。
冷たい風が吹き荒れるような後宮の中で、その文は、まるで春風を運んで来てくれたかの様だった。
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