やりやすかったな、あいつ。同じ学年なら実習ペアにするのに。

 それよりも。

 檜佐木修兵は学舎に戻ろうとしたその足をすぐにとめ、先程までいた場所まで急いで戻ることにした。

 あんなに弱い虚見たことがない。擬似虚でもあまり見ないクラスだ。あれでは逆に気づかれない。どこから来たのかも分からない。弱すぎて逆に網の目でもくぐり抜けられるのか。

 走ればすぐに雑木林の入り口がみえる。さっきまでともに虚に対峙してしていた女が一人まだ残っていた。

 修兵に背を向けている彼女が林に向かって右腕を伸ばしている。少しの間をおいて小さな爆発がおきた。隣接した枝葉が焦げる臭いがただよってきた。

 腑抜けてるな、詠唱さぼるからだろ。

 後ろから声をかけると、彼女が右腕をさすりながら振り返る。改めて見て変わらない目線の高さに驚く。線の細さは否めないが同性の友人と同じ距離感に顔があるのにはどきりとした。近い。

 さっきはうまくいった。

 それは負け惜しみじゃないのか。修兵が意地悪くいうと彼女はにやりとして言った。

 その通りだな。

 なあ、さっきのあれ、存在に気づいていたのは俺だけだと思っていた。あんたは何か知ってるのか。

 この場で起きた事実さえ上げておけば後は上が勝手に調査する。院生のつたない憶測などお呼びでないだろう。それでも、誰も気に留めなかった気配を探して学院をうろついていたら、立て続けに彼女と出くわしたのだ。彼女自身への興味もにわかに湧いていた。

 一ヶ月前くらいに一体やった。それから今日までは見てない。

 それちゃんと報告したのか。修兵がその目で確認できたのは今日が初めてだった。

 してない。

 は。あんた。

 虚ぐらいとこでも出るだろ。そういうのはあんたに任せるよ。

 彼女はなんの関心もないかのように真顔で言い放つ。右肘をぶらぶらまわし肩の具合をみていた。

 あんた、もうちょっとものを知ったほうがいいんじゃないか。学院の警備体制が他より厳重なこと、実害が出ることを知りつつも上に報告しないのは許されない怠慢だということ。説明しても改める様子はなかった。

 そんなんで死神になる気か。

 組織に属せばもう勝手気ままばかりは許されないというのに。返答次第では説教の一つや二つかましてやろうか。

 どうだろうな。

 変わらず涼しげな顔で修兵の視線を正面にうけとめたまま彼女は答えた。本心を隠しているのかはたまた心底どうでもいいのか、彼には判断しかねた。こういう人間に説教たれるのは無粋かもしれない、修兵はひとつ諦めた。そもそも俺はそんな柄じゃなかったな。

 本鈴が鳴った。学舎へ足を向けた修兵は、背中ごしに彼女の足音が遠ざかっていくのを聞いた。

 それ以降虚の嫌な気配が消えた。修兵はもう講義をさぼって出歩くこともなくなり、名前を聞き忘れた彼女の姿を見ることもなかった。講義もまともに出てなさそうだがもしかして、と昼時に食堂で見渡してみることもあったが見つけられためしはなく、一週間で関心はうすれていった。

 日頃の行いがたたったな。

 六年生の教室で、嬉しそうな級友の声を聞いて修兵は舌打ちした。赤くなった左頬を隠そうともしないので教室中の遠慮がちな視線を集めている。

 ちょっと下手うっただけだ。早く寮を出て外に部屋借りたい。いい加減面倒くさくなって愚痴をこぼした。

 知るか。遠慮のない拳が脇腹に入ってきた。

 このときばかりは壁内に家がない流魂界出身の我が身を憂いた。もともと不便を感じることもあったがうまくこなしていたので気に留めなかった。適当に遊び続けるってのも難しいものなのか、ああだるい。

 口にでてるぞ。もう一撃飛んできた。

 女が嫌いなわけじゃないが、何かを期待して見つめてこられてもそのすべてを叶えてやる気はない。それくらいは理解してる相手を選んできたきたつもりだった。

 そもそもここにいるのは幼き頃に見た背中を真っ直ぐに追いかけてきたからだ。早くあの人のように格好いい死神になるんだと決めてからはやるべき努力は怠らなかった。ただ時には息抜きは必要だろう、そう息抜き程度で十分なのに。

 修兵の人となりをよく知る友人は溜息をつく。お前は相手を選ぶということを知らないのか。

 選んださ。ふてくされて言葉を返した。

 そんなときに再会したのが彼女だった。休日に学外へでかけた帰り、門限近くの夕刻のことだった。寮と逆方向に歩いていた彼女を呼びとめる。

 彼女は修兵へ一瞥をなげると足を止めた。急に声をかけた修兵へ関心を寄せるでもなく静かに見つめ返す。どうだろうな、そう言ったあの時と同じ顔をしていた。これからどんどん日が長くなっていくという季節、周囲はまだ明るさを残している。淡い瞳に傾いた日が差し込んで、もともと淡白な顔を一層無機質な造形に仕立ていた。それはいつも何かを期待して彼を見つめてくる他の女とは違うものだった。

 修兵は理解した。自分が選ぶべき相手は、彼自身ごときに揺らがない、傷つくこともない女。

 気づけば彼女の家にいた。お互い同じ匂いをかいだのだった。

 意外にも修兵が相手の服を脱がすより先に脱がされてしまった。妙な悔しさを感じてしまう。そう急くなよ、溜まってるのか。

 けれども恥じらいなど見せず、彼女は口の端を持ち上げて言う。そういうそっちだって、もう待てないとこまできてるくせに。ひんやりとした指先で修兵の脇腹を撫であげた。

 その感触に修兵のつまらない矜持はかき消る。彼女の衣服を一気にはぎとった。

 お互い気持もおさまった時にはすっかり日が沈んで部屋は闇で満ちていた。

 彼女は脱ぎ散らかした服に目もくれず、裸のまま部屋の奥に消えていく。しばらくすると浴衣を羽織って戻ってきた。湯を浴びるか聞いてくる彼女のそつのなさに修兵はありがたく思う。女によくある、事後の甘えた雰囲気にいちいち付き合わされるのにうんざりしていたのだった。

 小さくていい家だな。湯の温かさに身をまかせて一息つくと、院生の一人住まいにしては珍しいこの一軒家に関心がいく。学院からほど近い商店通りを裏にぬけ住宅をいくつか通り過ぎた先、竹林が広がっている。その中に小庵とも呼べそうなこの建物があるのだった。見るかぎり小さい部屋が二間、水回りもすべて揃っていて、古いが手入れも行き届いているようだ。襖でつながる二間はともに縁側に面しており、辺り一面広がる竹林が見渡せる。月の出る夜の趣は想像に難くなかった。

 もしかしていいとこの嬢ちゃんか。まあいい、深入りしなければいいだけのこと。そこまで考えてから、先日の失態を思い出す。相手がさばけた性格で物分りが良いと安心していたら、世話を焼きはじめて色々こじらせることになった。修兵は浴槽から立ち上がる。今回は当たりだと思ったが、さあどうなるか。

 修兵が着てきた服を身につけて戻ると、彼女は台所で水を飲んでるところだった。水を注いだ新しいグラスを差し出され、それを一息に飲み干した。ひとつ質問をする。

 ここには一人で。

 そう。

 そうか。じゃあさ、泊まってっていいか。

 間髪入れずに返事がある。

 帰れよ。用事は済んだだろう。

 修兵は自分の選択が間違ってなかったことに満足して、思わず表情がゆるんだ。

 だよな、俺も同じ意見だ。

 人を試すようなこと言って。うっとおしいやつだな。

 悪い悪い。またあんたを見かけたときには声かけさてせもらおう、それじゃまた。そう言って彼は台所を出て玄関へと歩いていった。

 この日から修兵と黄里の気ままな関係が始まった。修兵が彼女を学院内で見つけられることはないが、その逆はあるようでついと現れた彼女から声をかけられる。言葉少なに一言二言交わして夜には彼女の家へ、の繰り返しだった。

 そうして雨の多い季節にになった。

 しまった降り出したな。黄里の家について間もなくのことだった。お互いの着物を掴んでいた手が止まった。なあ黄里。帰り傘貸して、と言いかけた時だった。

 彼女がじっと修兵を見つめていた。真顔で人の目を直視することにためらいがない性格はもう知っている。他人から見られることに多少慣れがある彼でも、はだけた胸もとに手を当てられた状態ではいささか落ち着かない。

 修兵、熱ある。黄里は彼の乱れた襟元を合わせ直すと彼を布団へ押し倒した。

 いやそれはたぶん違。

 食欲は。言葉を遮られてそういえばと思いなおす。

 昼あんま食べなかったな。まあでも微熱だろ。

 今から上がるんだよ。もういいから寝とけ。

 台所へ下がって行った黄里を見送って、修兵は軽く目をとじる。横になってみてはじめて体に軽く悪寒がはしっているのを感じたのだった。

 水置いておくから。

 枕元で声がしたと思ったら額に冷ややかな手のひらの感触を感じて、彼はまぶたを開けた。

 そういうの誰にでもやってるのか。

 彼女にしては珍しく答えるのに逡巡している。修兵の額に置いた手を引き上げて頬をかきながらぽつりと言った。

 つい。病人が身近にいたものだから。これくらい、死ぬ訳じゃないんだし、ほっとけばいいのにな。

 そういうのやっちまうと、相手がうざくならねえか。面倒な感じに。

 なる。それでいつも失敗する。

 黄里が身を乗り出して同意するのがおかしくて、修兵は横になったまま笑う。

 お前最低だな。

 あんたも同類だろ。

 ああ、同じだ。

 こんな軽薄な会話、女とできるとは思ってもいなかったから、ますますおかしい。黄里も感じるものは同じなのか、声は出さぬまま静かに笑っていた。

 まあいいや、お互いいらぬ心配は不要そうだし、このまま寝かせてくれ。熱は一晩で下がるだろ。

 どうぞ。病人といっても特に構わないことにするけど。必要なら声かけて、隣にいるから。彼女はそう言って立ち上がる。

 助かるよ。いつもより重く感じる体で布団を顔まで引き上げる。となりの襖は少し開けられたままで、薄明かりのなか黄里が座卓に向かっているのが見えた。ちらと目線をよこした彼女と一瞬目があう。

 雨はしとしと降り続いていて、屋根や地面を柔らかに打つ音が暗闇に満ちて心地いい。彼は再び目を閉じ、そのまま眠りの中にひきこまれていった。

 お互いに求めているものが同じだと分かってから、深入りし合わない関係が気にいって、そのまま季節は暑さの盛りになった。

 夏の休暇は終わったばかり、たるんだ心とむっとする空気とで学院内もいまいち締まりのない雰囲気になっている。

 毎年のことだが壮観だな。

 うだる暑さの中、食堂の入り口に面した壁一面に貼られた紙を見て修兵の友人がつぶやく。

 前期までの成績順位が全学年ごと教科ごとに掲示されている。漏れなく最下位まで名前が載っているので、壁の前には人だかりができていた。通常は学年別に教室前の廊下に貼り出されるのだが、院生たちの尻に火をつける狙いか、毎年この時期だけは食堂にそれぞれの現実が周知の目にさらされるのだった。

 修兵たちは集団の後ろの方から壁紙を眺めていた。8位、20位、16位、8位、13位、26位。名前の短さからすぐに見つけられる。意外にも壁の向こうから姓を持たぬままこちらに来たのだと彼女が言っていた。

 微妙だな。

 お前1番しかとってないのに何言ってんの。

 いや知りあいの話。

 このまま行っても将来の席次は到底期待されない。年次が上がるほど努力する者とそうでない者で伸び率に格段の差がつく現状で、あまり喜ばしい結果のようには見えなかった。黄里が明らかに後者であることはこれまでの付き合いで分かっている。

 虚くらいどこでも。と言いきった彼女は、院生のましてや一年のくせに実戦慣れしているように見えた。学院で習うような戦術は当然ない、それに体力もない。けれど臆することなく虚に向かうその動きは、今思い返しても考えなしの無鉄砲とは違うきがした。虚にとどめを刺す動き、あれはどうすれば仕留められるか明らかに分かってやっていた。持てるものはあるのだ。

 本気で向き合って努力すれば自分の世界が変わる。修兵はここに来て初めてそういう経験をしたからこそ、歯がゆさを感じてしまった。涼しい顔して寛ぐばかりでなく虚に向かう真摯さをもう少し広げれば。

 けれどそれは、過ぎた世話だ。向上心のない人間に何を言ったって意味をなさないし、そもそも俺たちの関係には必要のないこと。彼はとうに分かりきっている結論を持ちだして、とりとめのない思考を打ち切ることにしたのだった。

 腹減った、中入ろうぜ。そう言われて足を踏み出そうとして修兵は踏みとどまった。先行っててくれ、もうちょっと見ていく。冷やし中華頼んでもらっていいか。

 少し待ってから隣に声をかけた。珍しいな。

 連れてこられた。

 黄里の視線の先をたどって前方の三人組に目星をつけた。仲の良さそうな会話が聞こえてくる。

 なんで剣技実習吉良に負けるんだ。おかしくないか。いつか見た体格のいい赤毛の男が不満を漏らしていた。

 それは阿散井君がいつも力任せにしか振らないからだろ。

 ふふ、そうかもね。阿散井君そこからでも見えるんだ。小柄な少女がなんとか背伸びして人垣の向こうを見ようとしている。その彼女が後方にいた黄里に振りかえった。黄里は、そこから見えるの。

 見える。雛森のいい感じだよ。

 説明になってない。四人の声が同時に重なった。周りから一様に言われても黄里は気にする風もないが、静かに反論した。

 少々順番が変わったところで、所詮どんぐりの背比べだろ。素質のある雛森が努力をかかさないんだから、出来がいいのに違いはないよ。

 褒めてくれてありがとね。小柄な彼女が苦笑している。

 お前には言われたくないな。どんぐりだろうが何だろうが負けんのは嫌なの。吉良練習付き合えよ。

 やだよ。疲れるし、何回やっても阿散井君人の言うこと聞かないし。

 お前の説明がわからん。教官と同じように説明されても分からん。てえか、黄里。先輩と知り合いなのか。

 少しだけ。彼女は隣に目を配るわけでもなく短く答えた。

 修兵が彼ら一年生の会話を横で聞いていて、上位を分けあっている生徒のうちの三人だということは分かってきた。赤毛の彼が、よし、とうなずいてずいずいと寄ってきた。姿勢を正したかと思うと深く頭を下げる。

 そこにいる黄里の友人の阿散井といいます。今度手合わせ願えませんか。

 阿散井君、六年生はもう大事な時期だし直接はちょっと、ほらえっと話だけ聞いてもらってアドバイスいただいたほうが。金髪の彼が気を利かせて声をかけるも、だから口で言われても分かんないんだって、と取り合わない。

 分かった、一回だけな。もともと礼儀正しい人間も向上心のある人間も嫌いじゃないので、修兵は普段断る話を受けてやることにした。人目につくと話が広まって面倒なため、週末第三実習場借りといてやるから明後日八時に、と言いおいてその場を後にした。

 二日後の朝、教官から鍵を借りてきた修兵が向かうとすでに吉良と阿散井が実習場の前でまっていた。

 あいつはこないか、でもそれでいい。気をとり直して錠前に鍵を差し込みながら、彼らに声をかけた。午前いっぱい借りてるから二人とも付き合ってやる。吉良が先、阿散井は観察しながら準備しとけ。

 ありがとうございます、と男たちの野太い声が返ってきた。何かに気づいた阿散井の言葉がさらに続く。

 おうい、先輩待たせるなんて失礼だぞ。

 すみません。見学いいですか、あとは私たちだけなので。雛森が息を切らせながら駆けてきて頭を下げた。その右手は黄里の手首を握りしめている。黄里ほらちゃんと目覚まして。

 こづかれて修兵に頭を下げた黄里はいつもにも増して表情にとぼしく、霊圧は頼りない。生気がこうも感じられないとただの大きな操り人形のようにも見えた。

 構わない。さあ、時間が惜しい、すぐに始めるぞ。

 まずは軽く流して打ち合う。吉良と阿散井二人とも終わらせて分かったことは、この学年には期待ができるということだった。まだ半分寝ているような黄里と雛森は場内の少し離れたところで腰かけて見ていた。

 吉良は飲み込みが早いし俺が教えられることはそんなにないな。ただ肝心のとこで腰が引けるのはなんとかしろ。自信なんて根拠がなくてもいいんだ、阿散井見てたらわかるだろ。気合いれろ、最後に仕事しなけりゃ虚の数は減らないぞ。お前のほうは、今はともかく質より量だ。一個一個の動作を考えなくていいように叩き込め。阿散井もう一回だ。

 次は同じ動きで厳しめに攻める。何度も何度もしつこいくらいに繰り返しながら速さも強さもじわじわ上げていく。雑な動きになってるぞ集中しろ。阿散井の受けて返す動きがだんだん、受けるだけで精一杯になってきた。きつくても反撃しろ、受けながら狙え。

 予想通り、追い込んでからのほうが阿散井はいい顔をするようになった。無駄にある体力が削られるからこそ、感覚が研ぎ澄まされ無駄のない動きもできるようになる。いいぞ、そのまま。修兵の額にも汗がうっすら浮かんできた。あるかないかの一瞬の隙きをつくるのは易しくない。そうやって阿散井が針の穴を通すような鋭い一撃をだせるか待っていた。次第に彼の狙いが定まってくる。そうだ、来い。

 その瞬間、空気が変わった。頬をかすかに刺す空気。

 気づけば足元で後輩が体を丸くしてもだえていた。

 悪い。いいとこ入ってきたから手加減できなかった。立てるか。

 今はちょっと、無理です。

 かすれた声が返ってきたので吉良を呼ぶ。救護室連れて行ってやってくれ。

 いや、寝てれば落ち着きそうなんで、大丈夫です。時間、まだ残ってたらもう一回、お願いします。

 悪かったな、お前の丈夫な体に感謝だ。まだ時間はある、落ち着くまでそこで横になってろ。

 ちりちりと頬に感じる刺激はまだ治まらない。修兵が姿を探すと、黄里はうなだれて座っていた。横の雛森もかすかな異変を感じているようだった。

 なあ黄里。せっかくだからやらないか。声を掛けながら、やめておけ、と頭の中で声がする。彼女に、来いよ、とは言わなかった。答えを待ちながら、自分がどちらの答えを望んでいるのかは分からなかった。

 少しの間があって、やる、と黄里が立ちあがった。彼女をよく知らぬ者なら気まぐれをおこしたと思うだろう。けれどわずかに険のある霊圧はそれを否定していたし、なによりあの時、虚に出くわした時と同じ目をしていた。

 その目をまた見てみたかった。阿散井しかり真摯な眼差しができる人間が好きなのだった。

 近づいてきた黄里が立ち止まると、お互いに刀を構えた。阿散井は吉良と雛森の手伝いもあって場内の端へ寄っていった。

 見合ったのはわずか、始まりは早かった。

 体を低くして飛び込んできた彼女を受け流すつもりが思いの外速く、修兵は力で押し返した。持久力のない彼女が早い段階で勝負に出てくることは想定内だった。しょっぱなから仕掛けてくるか。

 普段院生同士でやり合うのと違って、彼女が変則的な動きをするので少し慣れが必要だった。なんでその体勢で逆に体を振れるんだ。だが刀の使い方が甘い。持ち方も力の入れ方も、修兵から言わせてもらえば幼稚だった。そして結局終わりも早かったのだった。

 あの目で黄里に追われるのは悪くないな。刀を鞘に戻しながら、同時に試験明けの体の切れにも満足していた。

 完全に息があがった彼女の眉間には深いしわが寄せられている。膝に手をあてなんとか立っているが肩を大きく揺らして息を整えるのに必死な様子だった。長いため息を吐いて体を起こす。乱暴に刀をしまうと雛森たちの方へ歩いていった。

 なんか、指導というより勝負だったね。吉良が驚いていた。

 すぐに負けてやんの。先輩はご機嫌そうだな。

 というか。雛森がつぶやく。黄里があんなに悔しそうな顔してるなんて。

 ああ、本当だ。いつもどうでもいい顔してんのに。近づいてくる彼女の顔を見て阿散井も首をひねっていた。

 その黄里が雛森のそばで倒れるように座りこんだ。

 雛森、先輩ぶちのめしてきて。

 ええそれはちょっと。雛森は黄里の霊圧の険がとれたことに安心しながら、無茶な要求にうろたえている。

 それいいな。四回もやってんだ。涼しい顔して結構疲れてんじゃね。

 見た目どおりじゃないかなあ。控えめに吉良が反論していた。

 それを無視して阿散井が場内の中央に立つ修兵に大きな声をかけた。

 せんぱーい。つぎ雛森行きますんで、よろしくお願いします。

 なんだお前まだなのか。

 もうちょっと。あ、彼女うちの一番はってるんで、気をつけてくださいねえ。

 お前らなんか目的すり替わってないか。呆れた修兵から溜息が漏れた。わかったよ、俺をぶちのめすんだろ。早く来い。

 来い、と言われて雛森も腹をくくったようだった。威勢のよい声が返ってくる。頑張ります。

 残りの三人が声援を送り野次を飛ばす。集中力のない奴らだ。こっちは始終大真面目にやってるというのに。それでも修兵は気分がよかった。楽しそうで何よりだ。

 本当に今年の一年は粒ぞろいだな。たて続けの打ち合いで面倒になった修兵は、ここでもまた指導というより試合形式で攻め手を繰り出していた。彼女は体格の不利を補ってあまりある反応の良さをみせている。そしてこれは今日の修兵の手合わせをきちんと分析していた証拠でもあった。反撃の一手をしつこく狙ってきていた。この子もいい目をする。

 視界の端で動くものがあった。あいつ帰るのかと、思いながら雛森の一手を返す。

 刀を持った彼女の手が止まった。失礼ですみません、挨拶もなしに。ぺこりと頭を下げた。あの、すみません、私もここで。黄里の調子が悪そうなので。すごく勉強になりました。

 ああ。なかなか良かった、そのままの調子で頑張れよ。修兵も刀を下げた。

 雛森はありがとうございましたともう一礼して、黄里の背中を追っていった。

 お前たち、ああいう人間にずいぶんと構うんだな。肩の関節を伸ばしながら近づいてきた阿散井に声かけた。

 雛森が構うんすよ、それで俺らもつられて。黄里もあいつには懐いてるし。でも時々まじでむかつきますけどね。今度はしゃがみこんで股関節を伸ばしている。

 気持ち分かるな。

 ほんと適当にしかやってないですからね。ここ最近になってようやくまともに講義でてるから、三人で特進落とされずに済みそうだと胸をなでおろしてたんです。

 揃って面倒見がいいもんだな。

 どういう訳だか。阿散井が頭をかいた。まあでも俺は俺のやるべきことをするだけですけど。まずは先輩をぶちのめさないと。

 それはまともに一発食らわせてから言ってくれよ。結局指導してやることを諦めた修兵が手加減なしで攻めたて、鼻にもかけずに終わったのだった。

 その日の夜。修兵の顔を見た黄里は明らかに不機嫌な顔をした。作業していた手をとめ、音もたてずに工具を置く。

 約束もないのに来るのはルール違反じゃないのか。

 満月がこうこうと光る、雲ひとつない夜だ。玄関に入らず庭先へと回った彼が見たのは、縁側の障子を開け放し蚊帳をはった部屋で座卓に向かっている黄里だった。

 具合悪そうだったから気になって来てみた。

 もう大丈夫だ。さらにあごを短く振って帰れ、と無言でうながす。

 それを無視して彼は縁側に腰かけた。そこから見えるのは、幾重に重なる竹の影と、月から優しい光が落とされて薄ぼんやりと照らされるあたり一面の笹の葉だった。以前彼が想像したとおりの、儚げで美しい景色だ。

 お前はこれくらいのことでのぼせ上がったりしないだろ。たまの気まぐれで心配しても構わないじゃないか。

 黄里は再び左手に工具を握る。手元に目線を落としたまま短く言った。そういうのいらない。

 顔見ないで言うんだな。いつもしつこいくらいに人の顔見て喋るのに。

 だから何。やはり黄里の視線は上がらない。

 修兵は気づかれないように小さく笑った。

 人の体調には口出ししたのになあ。呟きながら腕に止まった蚊をしとめる。

 前の話を持ってきて何なんだ。今日の修兵いちいちうっとうしいな。そう言いながら諦めがついたようだった。今手が離せない、自分で入れ。

 黄里は自身の右腕の義肢をいじっているところだった。机上においた肘当で右腕を固定し、左手側には数十種類の工具や医療器具のようなものがきれいに並んでいた。彼女はそれらの道具を迷うことなく適宜選びとり、前腕の内側の切開部にさしこみ中を覗いている。

 修兵は彼女と向かい合うように座卓の反対側に腰を下ろした。見てていいかと尋ねると、どうぞ、とだけ返事がある。

 黄里が自ら言及してきたことはないが、右腕が義肢なのは修兵もうすうす分かっていたことだった。彼女と出会ってから唯一泊まったあの日、襖の向こうに見えていたものがきっかけだった。それ以降も別段隠す気もない様子で開け閉めされる襖の奥に技術系の友人の部屋と似たようなものを見て、確信はないがもしかして、と思うくらいには見当をつけていた。

 修兵もそっと切開部を覗きこむ。座学で得た知識とは少し様子が違っていた。救護理論の授業で使った義肢の内部は、義骨が見えるばかりで、その中に神経をつなぐ管が通っているということだった。彼女のものは義骨の外側にも爪の大きさ程度の小さな部品がいくつか取り付けられ、そこからも管が何本か這っていた。

 護梃十三隊に属する死神のうち約一割は、戦闘で身体の欠損をかかえ代替品で補っている。死神の世界では義肢はそう珍しいものではない、というのが修兵の今持ち合わせている知識のすべてだった。

 刀は右で持ってたから、利き手ではないほうで器具を扱っているのか。ぎこちなさを全く見せない手の動きに修兵は感心していた。先端が針のような器具で内部をつつきながら場所を少しずつずらしている。何かを探しているような動きに見えた。

 そしてその眼差しは真剣そのものだった。修兵には目もくれず作業に集中する彼女を、彼はただ黙って見つめていた。金属製の器具を静かに扱うその指は細くて、白くて、繊細な動きをしていた。

 同じ動作を繰り返していた黄里の手が止まった。器具を持ち替えてその場所を何やらぐりぐりと掻き回している。当然血が飛び散ることはないが、義肢内部を満たす組織液がぐちゃぐちゃと音をたてる。修兵は腹の中で胃が縮みあがるのを感じた。黄里の顔が痛みに歪まないのがせめてもの救いだと思った瞬間、彼女から小さくうめき声が漏れた。彼もつられて出そうになった声をなんとか喉の奥で押し殺す羽目になった。

 今日はここまでだな。

 その言葉にほっとする修兵をよそに、黄里は切開部にゼリーのようなものを注入し、器用に縫いあわせていった。その後も手際よく道具を片していく。使用済みの器具を盆に載せ出ていったかと思うと、一時水音がして再び部屋に戻ってきた。その彼女が修兵を見てにやりとする。

 顔真っ青だぞ。

 そう言われて初めて彼は額の汗にも気がついた。手のひらでぬぐう。

 思ったより腹にくるな。

 これからいくつも修羅場をくぐろうかって人間がなにびびってんの。

 はは、そうか修羅場か、確かに。

 修兵は自分自身に情けなさを感じながら、一方で、修羅場という言葉につられて険をおびた彼女の姿を思い出す。平の一隊員として安穏とした日々をこなすのでは無くお前もそういう場所が合ってるんじゃないか、そんな言葉も浮かんだがうまく声にはできなかった。ただ簡単にこう言った。

 今日楽しかったな。

 滅菌庫へ器具を収めていた黄里の手が一瞬止まった。すべて入れ終えて彼に向き直る。

 楽しかった。ありがとう修兵。

 彼女の微笑みに今度は修兵が動きをとめる番になった。無関心な言葉が返ってくるか、もしくはうっとおしいと言われるかと構えていたのに、そんな顔をして礼を言われるとは予想してなかったのだった。

 なんで礼なんか。

 私の気まぐれに付き合ってくれただろう。

 少しの間をおいてから思い至るものがあって、修兵からも笑みがこぼれた。

 俺をぶちのめす件ね。

 部屋に上げてくれたのも、お返しに彼の気まぐれに付き合ったのかもしれなかった。

 あの子なかなかよかったな。いろんな意味で雛森が修兵の目をひいたのは確かだった。

 手は出すなよ。

 何だ先約あるのか。

 彼女は布巾で卓上を拭きながら、少し遠い目をしていつになく優しげな表情になった。

 雛森に懐いていると言った阿散井の言葉以上に、大切に思っているのが見てとれた。やることやったら湯を浴びて帰るだけの気ままな関係とはいえ、付き合いが長くなってくると見えてくるものもあるのだった。死神になる気もさしてないような彼女が学院の人間にまっすぐに関心を寄せているのはやはり意外でもある。

 あんたじゃあ分が悪すぎる。

 黄里、お前ならどうだ。

 遊んでやってるだろ。

 俺だけにしとかないか、って話。 

 だめだ。

 即答だった。真っ直ぐに見すえて拒否されたので本心だろう。

 なんだ、残念だな。俺にしては長く続いてるから、もうこの先もお前がいいなと思ってたのに。今度はするりと本音が出てきたのだった。

 どうせ長くもっても卒業までの遊びなんだ、うっとおしいこと言うな。彼女が布巾をたたみ直しながら言った。

 お前が俺との半年先のことを考えてたなんて。

 修兵の大仰な口ぶりに、口には出さないが黄里の顔が見るからにうっとおしい、と言っていた。予想通りの反応が返ってきて彼は可笑しくなった。

 修兵は、憧れのあの人みたいになるんだろ。黄里は暗に遊んでる場合じゃないと言った。

 分かってるさ。そもそも新人死神にそんな暇は与えられないってことも。お前の方こそ、死神になる気になったのか。

 どうだろうな。

 言葉は以前と同じだったが、今の彼女には憂いや迷い苦しさ、そういったものが透けて見えた。言葉を変えるならば、それはとても人間くさくて親しみを感じることだった。常に泰然自若と余裕な彼女が、今日一日でこんなにも多くの表情をさらけ出したのだ。

 変わってみればいいじゃないか。目の前のことに集中する、それだけでいい。一緒に死神やらないか。最後のほうは自然と言葉に熱が帯びた。

 さっきからそれは何なんだ。わざとか。

 お互い深入りしないのが暗黙のルールで、これまでのようにどちらか飽きたらおしまい、それだけの関係のはずだった。深入りしない、はまらない、その安心から長く保ってきたというのに。長過ぎたのがまずかったか、どこでこうなったか。怪訝な顔をする彼女の気持ちも分からなくはなかった。

 黄里がどこまで俺のうっとおしい気まぐれに付き合ってくれるのかと。修兵は嘘とも本当ともつかない言葉を吐きながら、思わず肩をすくめた。

 人を試すようなことをするなよ。前にも言ったろ。

 だいたい、お前が先に変わったんだぞ、あの時本気になるから。俺も気まぐれおこしてみたくなるってもんだ。

 なんの話だ。

 今日、俺と阿散井の二本目。

 黄里の頬にさあっと赤がさした。一瞬彼を睨みつけたと思うと、右腕を押さえて目を伏せた。
 
 あんたが勘のいいおしゃべりな男だってのはもう分かったよ。

 修兵を再び睨む彼女の目もまた赤く、潤んでいた。

 女のそういう目を幾度となく見てきた修兵でも思わず息をのんだのは、怒りに歪んだ顔を彼女が初めて見せたせいだった。座卓の向こうに座る彼女がひと回り大きく見えるのは勘違いではないように見える。

 やりすぎたなと思ったのも束の間、彼女の威圧を肌に感じながら彼は心のうちに沸き起こる高揚感に気づいてしまった。黄里の心を揺さぶるのは自分だけでいい。

 悪かった、深入りされたくないお前の気持ち無視した。

 だから、もういい。喋るな。

 修兵は卓上に乗りあげた黄里に襟元をぐいとつかまれる。唇で口を塞がれていた。いつもより乱暴な口づけに彼も応える。こういうのも悪くない。

 そのまま彼女を抱き寄せて膝に乗せる。その間もお互い唇を離さないので、だんだん息が苦しくなってくる。

 機嫌なおせ、霊圧のせいで余計に苦しい。

 無理だ。誰のせいでいらいらさせられてると思ってる。

 その言葉で、密かに心が踊った。

 お前が俺なんかにいらいらするのか。

 黄里の細い指が彼の頬にそっと添えられた。修兵は間近にせまった彼女の顔から何かをとらえたくて必死に見つめる。赤い顔した彼女が眉間にしわを寄せていて、まだ腹を立てているのは見てとれる。耳まで赤く染まった柔肌は昼間の自主練習のときと同じだ。体調が気になって首元に手を伸ばした時だった。

 額に、鈍い痛みが広がった。

 

 
 



 


[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ