最近奇妙なことがあってね。
布団のうえで胡坐をかいた浮竹がくすりと笑った。
おおきく開かれた障子戸のむこうにみえるのは、こぢじんまりとした庭と低い土塀。さらにむこうは澄みわたる青があるだけだ。風のよくとおるここは、夏の暑さに中てられやすい彼が数日療養するにはちょうどよい小庵だった。
床の傍らで薬包紙をしまう卯の花もほほえむ。つられて風鈴もからりと笑った。お話しくださいな。
ここのところ暑さがぶり返してきただろう。あわせて熱が上がるのか、寝ぐるしいうえに夢見がわるい。うつつに戻ってほっとすると、濡れた布がころがっているんだ。
あなたのかわいい部下では。
揶揄されて口をとがらす隊首にまた卯の花は笑った。
それがだ。台拭きなんだよ。
浮竹が額に指をあてて説明するので更にひとしきり肩を震わせ、はたときづいた。
まあ、それは。
海燕ならやりかねんが、こないだ君に叱られていたからなあ。
護衛をつけましょう。提案は間延びされた声のまま制止された。
大丈夫。いいんだよ。
もうすぐで会えそうな気がするんだ。
卯の花は彼の顔をみてため息を吐いた。こうなったらだめね。
その日はこうこうと月の照るよく晴れた夜だった。
近ごろの昼寝の成果あってか、浮竹は額で感じる感触にしぜんとまぶたが動いた。
開け放された縁側からはいる光のなかで影をおとすのは、猫と浴衣をきた女だ。その彼女がじつにまのわるそうな顔をするので、起きたことをわずかに申し訳なく思ってしまった。
額から落ちた台拭きをにぎって床から上体をおこすと、かりという音とともに足の上の重みが消えた。同時に女も猫を追い移動する。十畳ほどのちいさな部屋を猫と女がおいかけっこ。夢見が悪い原因はこちらにあったのではないだろうか。
黙ってながめていると気づいたこともある。女、訓練された動きをする。それでもちいさな獣を捕まえられていないので可笑しくて声をあげてしまった。
その瞬間、女がふりかえり寄ってきた。
大丈夫だ、心配ないよ。
額に手をやる彼女にそういったものの、床に押し倒された。台所へ駆けていったかと思うと濡れた台拭きをあてがわれた。
その顔にはもう、初対面のときの無防備さはない。表情をかくした瞳が月のせいですこし光る。真摯のなかに必死をみいだしたのは、永らえすぎた故の勘繰りだろうか。
大丈夫、大丈夫だから。
もう一度繰り返す。猫もにゃあと相槌をうった。首にすりよった獣をなでてやるとかりと鳴る。鈴ではない音の正体をさぐって首をまさぐれば、鍵だった。猫はごろごろと枕元に丸くなる。
横になったまま腕を差し出した。女は頭をさげ、浮竹の手の中のものをとり上げると去っていった。
それで、会えたのですか。
ああ、今では居ついてしまった。ほら。
にゃあと返事がかえってきた。
でもあれは。
再度問われて彼は目をほそめた。わるいが濡れ衣は海燕に被ってもらうことにしよう。
卯の花が辞した後、ちいさな居候をひざに抱いてひとつ息をついた。
しまったなあ。羽衣はおまえのもっていた鍵だったんだ。
なかなか美人だったな。大丈夫、おまえも美人だ。
手元でごねる獣をなででやる。
新しい出会いって貴重なんだぞ。
未練をたっぷりのこしてもうひとつ、息を吐いた。
どうしてあんな人間が目立たずにやってこれたのだろう。
院内の食堂は箸や茶碗のなる音が落ちついて、いまは学生たちの会話で賑わっている。皿の上で食い散らかした秋刀魚の骨をまとめながら、檜佐木修兵は考えていた。
先輩と声がかかるので顔を上げれば教本を握った後輩が指導を請うた。
助かりましたあ。先輩女にめっぽう優しいから野郎は嫌いかと思いきや。言うてみるもんですねえ。
隣で食事をしていた修兵の友達がく、と喉を鳴らした。ちがうちがう優しくしたところでこいつ女を泣かすだけだぞ。女の敵だ、敵。それでも女はこれがいいらしい。まったく、野郎の敵だ誉めてやることなんてねえよ。
そんじゃ今度は女の落としかた聞きに行きますねえ。進級あやうい後輩は元気に去っていった。
面倒見がいいのは壁の向こうにいたころからだ。学の方はまあこちらにきてやる気をだしたからだが。気付けば食堂で見知らぬ院生に教えを請われることが当たり前になってきた。それに器量が悪くないのを自覚しないほどにはもう、幼くもない。いいじゃないかむこうは泣かされると分かっても寄ってくるのだからとって喰ったって悪くないだろう。そう思い修兵は悪友の腕を絞めにかかった。
学院の食堂はかつて講堂だったものだ。校舎とは外廊下一本でつながっている。きしむうえに重い扉を押しやれば頬にむっと風があたった。