吹きこむ風の中に見知った霊圧が混じっていたので、修兵は友達を先に教室へやった。悪い野暮用だ。

 うらやましいこって。ふけてもノート見せてやんねえからな。

 霊圧は匂いではないから空気の流れに混じるものではない。けれども肌や粘膜で発生する感覚と紛れるくらいに彼女のそれは絶妙に抑えてあるのだった。巧い。修兵は感心しながら食堂横にはえた桜の老樹にもたれた。探りをいれながら間をはかる。さん、に、いち。

 あの先輩。

 予想と異なる方から声がかかるので目を丸くした。二人の下級生が間を悪くしたかと気まずそうにうつむく。

 どうしたんだ。取り繕うように笑顔をそえた。彼女らはふたたび顔をあげる。

 内定決まったと聞いて。

 はにかんでもちあがる頬の丸さが愛らしい。馴染みの同級生をおもいだし修兵の声も柔らかくなった。ああそうだ。

 おめでとうございます。

 見あげてくる真摯な視線をうけとめて礼を言った。ありがとう。

 はやく一緒に。いいかける言葉がきれるとともに彼女らの視線がそれる。

 右頬にやわらかな髪の感触があった。

 どうしてこう優しくしてやらないのだろう。右肩にのせられた白い手を見やり、修兵はわずかに呆れまた、だから共にいられるのだと思う。こうして不意にみせる彼女の酷薄は己の一面に通じたからだった。おそらく彼女は普段あまり呈しない微笑みというものを浮かべているのだろう。

 結局想いを込めてつむがれた言葉は継がれることなく、ええと失礼します、で休止符が打たれてしまった。

 はやく一緒に。

 仕事ができるといいな。彼は継がれなかった言葉を胸に小さく愛らしい少女らを見送った。

 右肩の重みがなくなったことに気づいて修兵は急ぎ名を口にした。

 こうり。

 振りかえって存在を確かめる。老樹の節くれだった枝から日が落ちていて彼女の白い顔に斑模様をつくった。拳一つ先にその顔があり、いつもと同じようにまっすぐ修兵を見すえていた。

 黄里。まえに姓はないと言った。姓など持たぬままこちらに来たものも多いので別段不思議はない。何か不便を感じるようで自ら好きなように名乗るものも多いのも確かだが。

 遡ることさきの春、修兵は初めて黄里を見たのだった。よく覚えていた。新入生オリテンで三十余名を先導して学院内を案内していたとき、突然噴きでたような霊圧を近くに感じて口を止め足を止めた。

 鬼教官のかんむりが落ちたな。最初の一発目はかなりくるからな、覚悟しとけよ。

 げ、やべえよ俺絶対やらかすわ。目の前くらったらきついぜ。集団奥にいても確認できる赤髪の男がよくとおる太い声でぼやいているのが聞こえた。

 ひとしきり笑いが収まったところで再び歩みを進めた。最後は食堂。外廊下を渡った先だ、そのまま昼休みに入っていいからな。待ってましたと歓声があがった。

 外に向けて扉を押しやれば薄紅の花弁が吹き込む。その日も風の強い日であった。外廊下を渡りながら修兵は花嵐の中にいるように感じた。それくらいに視界を薄紅の大群がおおい、食堂脇の老樹はさながら台風の目であった。

 知るやつもいるだろうがあれは学院建立時学院長、いまの総隊長だ、が植えたものだ。手折るなよ、壁の中じゃあ名の知れた桜だからな。

 振りかえって後続の集団に声をかけたとき、視界の隅によぎるものがあった。

 あ、お前いいときだけに帰ってくんな。俺みたいに真面目に講義受けてるやつがうまい飯食う権利があるんだぜ。

 赤毛の新入生は男としてもかなり大柄な体躯の持ち主だ。小さく押さえたところでやはり響く低い声で話しかけていたのは、これもまた引けをとらず上背の女だった。彼女は男の横でにやりとするだけで何も言わない。修兵につづく集団の最後尾でふたり頭がぬけ出ていたために様子がよく見えたのだった。

 女は修兵がこれまで足を留めてきたような器量はない。中の上といったところかと品定めをした。けれどもひょろりとした男並みの身の丈や、色素が薄い顔立ちに反して烏色の髪が目についたのだった。その短めの黒髪が薄紅の春風で舞う。赤毛の男は髪があたるのか指で頬を掻いた。

 ふいに金属の鳴る音がして修兵は現実に引きもどされた。焦点のあわない視界いっぱいにぼんやりと映るのは古びた鍵だった。

 ああなんだ。もう見つけたのか。

 先日、戯れにこっそり黄里の部屋の鍵を野良猫のくびにくくりつけたのだ。たいして講義に顔をださないのだから彼女にしてもそんな困ることでもないだろう。彼女のことだ二日とせずに見つけてくると予想していた。

 まったく。苦労した。

 黄里は眉をしかめて文句をいう。今日で四日経っていた。そのながい体躯にはもうやぼったい学院の制服が着せられている。

 あの浴衣似合ってたのになあ。

 どうでもいいよ。言葉通りのなげやりな声が返ってきた。

 つまんねえな。慌てた顔ぐらい拝んでみたかったが。

 慌てたさ。

 いじめがいのない。つまんねえよ。

 知ったこっちゃない。

 修兵は本当に困らせてみたいとおもったのだ。黄里はいつもどこ吹く風と寛いでいる。嫉妬も不安も不満ももちあわせないように見える彼女は、修兵からすれば実に都合よく居心地もよい。だからこそ戯れの相手に選んだのだ。それがどうだ。

 今夜は。

 いいよ。鍵もあるし。

 なあ覚えてるか。

 思い返していた過去の日と同じく、黄里は髪を吹かれるままに任せている。日差しにあてられて、空気をふくんだ髪はときおり光った。

 入学してすぐのオリテン。俺が引率したんだ。

 覚えてない。

 こともなげに事実をいう。

 あの日の真っ昼間どでかい霊圧があがった。お前じゃないのか。

 黄里はどんなときでも人の目をまっすぐに見つめる。嫉妬に色をかえた女の刺すような視線から目をそらすこともない。荒くれ者の十一番隊士にからまれてもその瞳は曇ることなく、相手にむかって静かに開かれていた。つねに開け放された視線、隠すもののない双眼。それでも修兵はなにかを探して、見返す彼女の色素の薄い虹彩をみつめた。

 黄里の形のよい眼が歪んだ。

 あれはわたしじゃない。

 日にあてられて細められた瞳に、修兵はなにも見いだせなかった。あの日、食堂で見つけた教官にお冠でしたねと声をかければ否の返事があったのだった。

 ではなぜ霊圧を過剰ににおさえる。講義に出ないのは出る必要がないからではないか。そう問いたかった。

 修兵には自信があった。学院という井戸の中しかしらないとしても、いずれは上にのぼり上がるつもりでいた。その器はあると踏んでいたし現に周囲がそう評価した。だからこそ黄里に疑問をかんじたのだ。お前のこと俺にはわかる、そんなあつかましい言葉も心によぎった。

 また今夜。

 黄里が背を向ける。

 彼のといかけは胸のうちから吐き出されることなく、くすぶったままになった。





 壁のなかに入って一ヶ月が過ぎようとしていた。

 雛森桃は教本を抱えたまま講義室でうつむいていた。自分が本当になにも知らぬまま長く流魂街で生活していたことを思い、うかない表情だった。

 昼休みまえの講義で生徒たちは皆そそくさと席を立っている。少し離れた席から吉良がきづかう気配がしたが、雛森は優しい彼に応える気分ではなかった。

 おうい吉良、飯いくぞ。

 阿散井の低い声が教室に響いて、心優しい級友のとまどいながらその場を離れるようすが空気の揺れで伝わってきた。

 しまいには雛森一人がのこったようだった。

 どうしたの黄里めずらしいね。

 頭上で黄里がわずかに息をもらす音がした。向かいに座り込んだ彼女のばつのわるそうな笑顔をみて、雛森もすこし笑った。入学初日たまたま席が隣というきっかけで会話をするようになっていた。

 結構ね、分かるんだから。黄里の霊圧。

 うん。

 それっきり何も言わない。言葉が多くないのはいつものことだ。長い手足をなげだして座り、ただのんびりしている。

 無言のすき間に吸い込まれるように雛森がぽつともらした。

 虚のはじまりを知っていた?

 うん。

 いまの授業ではじめて知ったの。そういって一つ溜息をついた。

 不幸にも虚になってしまう人もいるんだね。

 そう。

 虚になってしまってからの罪を浄化するのが、わたしたちの仕事になるんだよね。

 そうだ。

 沸き上がった感情をどうにかしたくて、ちいさな子供のようにひとつひとつ黄里に確かめた。

 でも虚に喰われた人は帰らないの。

 とても大事だった家族を思った。

 そうだよ。

 でも。すべての虚を地獄におくるとなってたら、それはそれで、悩んでしまうのよ。

 うん。

 わたしどうしたいか分からなくなった。

 思いもかけず言葉の尻がちいさく、震えた。

 わたしにも、人を助けられる力があると分かって嬉しかった。力の使い方をちゃんと勉強して、大丈夫だよ、て安心させてあげられるようになりたかった。ここで頑張ったらそうできると思った。けど、そんな簡単な世界じゃなかった。

 うん。

 黄里はまっすぐに雛森をみて、うんとだけ相槌を繰り返した。雛森の抱えた教本はぽつぽつと染みをつくっている。

 どうしてみんなは、きにならないの。あたしはだめ。いいクラスにいれてもらって頑張っても、こういうのにいちいち不安になっていてやっていけるのかな。

 以前にも、魂葬された魂が行き着く流魂街には雛森が想像もつかないくらいひどく荒んだ街があると知って、塞いだこともあった。死神の道理では助けるはずがさらに人を苦しめることなっていないか。たどり着いたら他の地区には移せないという。こういうものなのだろうか。そんなものなのだろうか。

 ごめん、雛森。死神はすべてを救えない。この世界のシステムにも不条理はある。

 雛森にも分かっていたことだ。現世とはちがうこの世界に理想を求めたかった。だから、だれかに事実をはっきりと断言してもらいたかったのだと、いまさらながらに自覚した。

 そうだよね。でもどうして黄里があやまるの。

 ふたたび明るさが戻りつつある雛森に、彼女は肩をすくめた。

 たまには偉そうにしたいから。

 もうなにそれ。

 雛森。

 名を呼ばれて見上げると、黄里の額がこつんと雛森の額にあてられた。

 私はそんな雛森に死神をやってほしい。

 離れて行く黄里の顔にむかって雛森は笑顔で礼をいう。

 ありがと。

 じゃあわたしは黄里にもっと講義をうけてほしいな。いっしょに勉強しようよ。

 やだ。

 稀にみる笑顔を披露して黄里は講義室を出ていく。

 見送ってから視線を戻すと、雛森の机には藤が一枝おいてあった。






 白哉様。声と同時にふすまが開いた。目付の佐々川から短く報告がはいる。

 間違いございません。

 あやつめ、やはり戻っておったか。

 大きくなられておいでで。叩頭したままの佐々川の声が震えていた。よもや再びお姿をお目にする日がくるとは。

 朽木百哉は、六の文字が染め上げられた羽織を脱ぎながら立ちあがった。 

 今から学院にむかう。皆にはまだ伏せておけ。

 目付はただ深く頭をさげた。

 数十年行方知らずだった黄里の気配を感じたとき、百哉は目付の佐々川を密かにはしらせたのだった。結果、彼女は中央霊術学院にいるという。しかも院生として先日入学しているとのこと。

 百哉が学院にむかう理由はひとつだ。

 黄里が朽木家当主後継者たらんや。

 否や。


 瞬歩で移動しているあいだというのは、この世の世界がひどくあやふやで、すべての物はぼやけて、薄れて、輪郭をうしない、頼りなげに混じりあって見える。学院へと向かうちょうど今は、あちらこちらで咲き誇る桜が瞬歩の世界に薄紅の染みをつくっていた。

 薄紅がにじむ季節。それは百哉が妻を亡くした季節であり、妹を失くした季節であった。

 彼にとって数十年ぶりに再会する黄里への用件はただひとつだけだ。当主としてのすべき対応など分かりきっているし、大した案件でもない。彼女が求める器でなければ、朽木家は依然として長女をなくしたまま、というだけである。

 ただ。百哉はわずかに歩をゆるめた。ただ、なんと声をかけたものだろう。

 記憶に残る最後の妹は小さく、そしていとけなかった。いまや成人し母親の面影をよくうけついでいる、とは佐々川の弁だ。そんな数十年分もの成長をそばで見届けることなく大きくなった妹へ、兄としてかける言葉がでてこない。

 妹は、どんな顔をしていただろうか。いとけない様子は思い出せるのに、はっきりと像をむすぼうとすればするほど、記憶が霞んでゆく。声は、目の色は、笑うとえくぼができる子だっただろうか。手探りでとりだす記憶のなかの彼女と、今とはどれだけ変わっているのだろう。

 そこまできて不毛な己の思考に気づき、彼は首に手をやり襟元を直した。すぐにすむことだ。

 当代きっての瞬歩の使い手である百哉の、この全てがにじむ最速の世界に踏みこめる者はいない。普段情というものに思考が絡めとられるのを嫌う彼が、少しばかり気をゆるませる瞬間でもあった。






 ながい一日がおわった。

 漆喰の壁にはさまれた道を歩きながら帰路につく。ましろな壁にきれいにならされた路。いやな臭いもない、風が吹いても土埃がひどくて目が痛くなることもない。清潔にすれば自分の手はとても白いということを知ったのも、こちらに来てからだった。しかしよい匂いのするのりのきいた着物をきても、どういうわけか心は晴れない。

 うつむき気味の視界に割り込んでくる大門と背のたかい外塀が近づいてきた。

 またながい夜がはじまる。

 朽木ルキアは溜息をこぼさないように一息ついて、門をくぐった。

 お帰りなさいませルキア様。

 ただ今帰りました。

 百哉様がさきにお戻りです。

 ルキアはいらぬ物音をたてないよう注意しながら廊下をすすんだ。覚えたばかりの道順で目的の部屋へたどり着くと、膝まづいて襖ごしにこの家の主に声をかける。

 兄様失礼いたします。ただいま帰りました。

 部屋に入るよう促されて襖をあける。百哉の背中がみえたととたんに思わず手が止まった。

 すかさず義兄から声がかかる。どうした。

 いえ、なんでもございません。自分でも笑えるくらいに声が震えていたのに驚いて言葉につまった。

 えっあっあの。

 百哉の背中がまわるのをみてルキアはあわてて頭をさげた。心臓がはちきれるかと思うくらいに鼓動がはやくなり、畳についた掌が湿ってきた。

 分かったもうよい。

 ルキアは何がもうよいのか分からず固まったままだった。

 さがってよい。

 蚊のなく声でようやくはいと返答した彼女は、下がり際に義兄の独り言を背中できいた。

 ほかの家人が気づかぬものを。聡いというより臆病が過ぎる。

 溜息混じりの小さな声に彼女は肩をゆらし、一目散に自室へと逃げかえったのだった。

 たしかにそうなのだ。言われる通り、顔色をうかがうのがうまくなった。それだけならよいものをいちいち動揺するからいけない。相手は悟られてよい気はしないだろう。知らぬ顔をすればよい。分かっていてできないから尚更に落ちこんで臆病が顔にでる。

 ルキアは布団をひく手をとめた。小さくとも調度品のそろった小綺麗な部屋を見わたす。貝や金箔の装飾はないが、彫りのうつくしい漆塗りの家具たちは、汚れた手で触るのがはばかれるくらい色艶があった。いま手をついている布団はかつて使ってきたものの四倍くらい厚く、そして柔らかかった。

 兄様はどうして私を妹にしたのだろう。

 兄様はどうして。

 何に怒っていたのだろう。

 初めて会ったときからそういう人間だとわかるほどに表情を出さない義兄だ。それが今日の彼は怒りがにじみでていた。霊圧さえ刺をもっているかのようでルキアにとってはひどく恐ろしかった。周りのひとが平気にしているも余計に不安で落ち着かなかった。

 やはり私がいけないのか。

 本当に妹にしたかったのだろうか。

 私はなぜ。

 ここに来てしまったんだろう。

 ルキアは柔らかすぎて肩の凝る布団にもぐりこんだ。

 

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