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□かささぎの
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「急げ、急げ」
 折角今日は早く帰れそうだったのに、会社の出口で、空気が読めないことで有名な上司に話し掛けられてこんなに遅くなってしまった。
「寒い、寒い」
 吐き出される息が瞬時に白くなる。
 夜の冷えた空気にさらされた両耳が、刺すように痛い。
「…ったく、もう、あの馬鹿上司…」
 寒さから腹立ち紛れにそんなことを呟いてみるが、人気のない路地に虚しく響き渡るだけで、なんの足しにもならなかった。
「ま、いいや。着いたし」
 半ば駆けるほどに急ぎ足だった速度を緩め、ひとつのアパートの前で立ち止まる。
 ほう、と大きく息を吐き出し、湧き上がる高揚感に顔を綻ばせながら階段を上がり始めた。
「喜んで、くれるかな」
 手には彼が食べたいと言っていた、有名なあの店の甘味。
「でもだいぶ待たせちゃってるしなぁ」
 結局上司から逃げられたのは、今から帰る、とメールして約三十分後のことだったのだ。
 彼は今、だいぶ待ちぼうけを喰らっているだろう。
「…あ、霜が降りてる」
 真っ直ぐとある扉を目指す視界の隅に、ちらりと白いものが過ぎった。
 過ぎる風景の中でそれが霜だと確認しながら扉の前に着いたのと、見計らったようにその扉が開いたのはほぼ同時だった。
「――お帰り、遅かったね」
「…ただいまー!!」
 無邪気に微笑む彼の笑顔に癒されて、感無量で抱き着く。
「聞いてよ、あの馬鹿上司がさぁ…」
 そのまま雪崩れ込む形で部屋に入り、静かな音を立てて扉は閉められた。
 暗くなった寒い夜闇に、ひとつだけ光が煌々と燈る。
 その明かりを受けて、地に下りた霜が、白く輝いていた。










かささぎの 渡せる橋に おく霜の
しろきを見れば 夜ぞふけにける
 中納言家持
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