Novels Room2

□その声が呼ぶ名は
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「せ……青龍……」
「昌浩。何を、泣いている?」
 抗う隙なく仰向けられた眼前には、身を屈めて身長差を埋めた青龍の(おもて)が差し迫っていた。
 その両目は吊り上り、声には剣呑な響きが宿っている。
 まるで夜の湖のように深い蒼の色味を微かに残した瞳で真っ直ぐに見つめられ、出来ることならこの場から逃げ出したいという一心から、昌浩は重なっていた視線を逸らした。
「な、泣いてなんか、ないよ……っ」
 昌浩の顎を捕らえていた拘束から解放され、横顔であからさまな嘘を吐く。
「…………」
 徐々に昌浩の顔から血の気が失せ、蒼白くなっていく。
 その様子を視界の隅に捉え、青龍は重い気分で息を吐き出した。
 ふつふつと込み上げてくる怒りで、我を失いそうになってしまう。
 必死に冷静を保ちながら伸ばされた手に、昌浩の肩がびくりと揺れた。
「昌浩。何故、泣いている?そして、お前は、こいつに何をしていた?」
 もう三度目になる尋問に、答えないという選択肢はないと悟った直後。
「――い、……ってぇえ!!」
 男性の叫び声が上がり、車内の注目を集めた。
「いてぇな、離せよ!!」
 見たところ三十代と思しきよれたスーツ姿の男性の左腕は、青龍の右手によって捻り上げられ、このままでは折れてしまうのではないかと心配してしまうほど強い力で掴まれている。
「答えろ。こいつに何をしていたんだ?」
「離せって言ってんだろ!!このガキ!!」
 青龍の詰問を無視し、ひたすら「離せ」と叫んで男性は暴れている。
 周りの乗客たちは、何事かと目を丸くしていた。
「――答えろ」
「……ひっ」
 暴れる男性を冷たい目で見下ろしていた青龍の右手が、それまで掴んでいた左腕を離した。
 解放されたと言って痛みに軋む腕を摩っていた男性の、今度は襟元を青龍は掴み、引き寄せる。
 闘将の本性を剥き出しにした形相で凄まれた男性は、情けなくも喉の奥で絡みつく悲鳴を上げるばかりだった。
「自分で言うことが出来ないと言うんだったら、俺が代わりに言ってやろうか」
「やっ、止めてくれ、頼む、それだけは……!!」
 にぃ、と残酷な笑みを刻む唇が紡いだ言葉の内容に、ようやく我を取り戻したらしい男性が必死の様相で縋り付く。
 男性の行為を鼻で笑い捨て、青龍は続ける。
「面白そうじゃないか。――人畜無害そうなこの男が、未成年男子の下半身を鼻息荒く弄っていた、なんてなぁ!?」
「……ぐっ!!」
 言い終えるか否かという瞬間、男性の体は勢いよく閉まっているドアに叩きつけられた。
 くぐもった悲鳴が漏れる。
 甲高い悲鳴が短く漏れる。
 前者は男性のそれで、後者は距離を置いて取り巻くように見ていた乗客たちのそれだった。
「……聞いた?……痴漢ですって……」
「いい年したような男が、かよ……最悪だな……」
「相手は男の子だって……」
「うわ、ショタ?……キモいんですけど……」
「ほら、被害者の子、かわいそうに……」
 ただ身を固くして事の成り行きを見ているしかできなかった昌浩の耳に届くのは、痴漢行為をした男性を軽蔑する言葉と、被害者となってしまった己に同情する言葉の二種類しかなく、しかしその言葉も、今眼前で広がっている光景もまるで遠くの世界の出来事のようにしか思えない。
 彼の胸を占める思いはひとつ。
 早く家に帰りたい――。
 それだけだった。
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