ラピスラズリ

□涙
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体中を駆け巡る彼の血のせいだろうか。
昂っているのかどうしても落ちつかず、目的も無くふらふらと都庁の中を歩き回る。
やがて誰もいない部屋を見つけると、大きな窓に全身をもたれてずるずると座り込んだ。

雨は静かに落ちていた。

水の対価を得て戻ってきたサクラの華奢な体は傷だらけで、特に足の怪我は酷かった。
痛みに体も心も貫かれても、大切なひとの心を取り戻す為に彼女は旅を続けると決めた。
小狼も、黒鋼も、モコナも、各々の理由と意志で旅を続けると決めた。
そして、自分も。

ふと、その匂いに気がついた。
幾つもの匂いが混ざっていたとしても、この匂いだけは間違いなく分かる。
誰か、なんて嫌でも分かってしまう、濃い匂い。治療していない背中の傷から血が滲んでいるのだろう。
……泥を浮き沈みするような意識の中で、空気を引き裂く轟音が聞こえた。
その時、黒鋼に強く強く抱き込まれたのを覚えている。自分を何かから隠すように。
そうして負った背中の傷。
その唯一の血の匂いに、ファイは振り向こうとはしなかった。
「……サクラちゃんは?」
「眠った」
「……そう」
交わす言葉は呆気ないものだった。
そもそも、不自然でない程度に淡白な関係で十分だったのだ。
ファイは自ら引いた線をどこで曲げてしまったのか。それを考えるのも、もう無意味なことだろう。

けれど、黒鋼が好きだった。
大好きだった。

「おまえももう休め。明日の朝にはここを発つぞ」
「…………」
原種の吸血鬼の血を受け入れたファイの体。
圧倒的な治癒能力を誇る吸血鬼となったファイの体に、傷や痛みはほとんど残っていない。
しかし体は重く、動くのは億劫だ。喉を震わせて音を声にするのも、億劫だった。
たった一言も返さずにファイは冷えた窓硝子に額を寄せる。傍らで黒鋼が屈み込んでもファイは黙ったまま動かない。
ファイの金髪に黒鋼の手が触れ、そして全身を包み込むようにゆっくりと抱きしめられる。
ファイはさして抵抗もせず、ぼんやりとされるがままになっていたが、黒鋼の指の感触と温度を素肌に感じて表情を歪めた。ハイネックシャツが捲り上げられている。
「したくない」
「うるせぇ」
「この状況でどういうつもり?そんなに耐えられないんだ」
「黙ってろ」
黒鋼の手に髪の毛を掴まれ後ろに乱暴に引っ張られると、ファイの唇に黒鋼が強引に口付けた。
「ふ、っ、やぁ、んーっ!!」
焦ったファイは黒鋼から逃れようと暴れた。
黒鋼の体を拳で叩いたり足で蹴ったり、それでも黒鋼は微塵も引かない。それが今は心底、悔しかった。
このまま抱かれてしまうのは絶対に嫌だとファイはもがいていたが、やがて、黒鋼の手が止まっていることに気づいた。
ファイの左胸に黒鋼の掌が押し付けられている。

ドクン、ドクンと、心臓が力強く脈打つ。

黒鋼はファイの鼓動を自分の手に伝わせているのだと、抱きしめた存在を確かめているのだとファイは悟った。
生きている、と。
ファイは生きていると。
らしくない行動だと思った。こんなのは黒鋼らしくない。
……怯えているなんて。
衝動が全身を、爪の先まで一直線に貫く。
黒鋼の背中を抱きしめようとして手が勝手に動いた。しかし触れる寸前に、彼の血の匂いで背中の傷のことを思い出して、ファイは手をぎゅっと強く握りしめる。

だめだ、触れたら傷に障ってしまうから、違う、自分はもう彼を、愛しく想うひとこそ抱きしめてはならないのだ。
線を、二度と越えてはならない。

宙に浮かせたままだった手から力を抜いて、腕をだらりとぶら下げる。
「……離して……」
熱くて堪らない喉の奥から懸命に絞り出したのは、あまりにも弱々しい拒絶だった。
彼はこんなにも純粋に生を求めてくる。
狂おしいほどの歓喜と己の罪の恐ろしさに心が捩れて苦しくて、叫びたかった。声を張り上げて泣いてしまいたかった。
黒鋼の腕の中で。

決して涙を落とすまいと固く固く目を閉じた時、ファイは我が唯一の姫君と定めた少女の、小さな声を思い起こしていた。

――生きていてくれて、よかった……

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