ラピスラズリ

□蜜計
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首筋に熱い呼気を感じる。肩に鼻先を擦りつけて甘えてくるような仕草がどうにも子供っぽい。
「……おまえは可愛いな」
「え?黒たん?」
「……嫁に欲しい」
「うっ、うぇえええぇっ!?」
何を言い出すのだこのひとは、とファイは顔を真っ赤に火照らせながら気がつく。
(まさか、まさか……)
……とりあえず落ちつかなければ、ファイはゆっくりと息を吸い込んだ。


太陽の光も柔らかくなる穏やかな午後。この時間、受け持ちの授業が入っていなかったファイは侑子に誘われて理事長室でお茶を楽しんでいた。美味しい紅茶と甘いお菓子で談笑に花が咲く。話題は目つきの鋭い体育教師のことだ。
「黒鋼先生がお酒に酔ったところってまだ見たことないのよねぇ。ファイ先生は見たことある?」
「ほんとに酔ってるっていうのはオレも見たことないですねー。黒たん先生って酔っぱらうような飲み方しないんですー」
黒鋼は場の勢いだけで喉に流し込むような飲み方を好まない。味わいながらじっくりと飲むので酒に飲まれてしまうということは滅多にない。
「ファイ先生は酔ったら猫になったのよねぇ」
「あはは、あんまり覚えてないですけどー」
以前、ファイと黒鋼が侑子に馴染みだという店に連れていってもらった時、揃えられている酒がどれも美味しくてあれもこれもとファイは飲み過ぎてしまった。
酒にはそこそこ強いファイだがさすがに酔ってしまい、にゃあにゃあと騒ぎながら黒鋼に甘えてくっついて離れなくなり、ぐずぐずに酔っぱらったファイを黒鋼は強引に抱えて帰ったのだ。
翌日、ファイは黒鋼にこっぴどく叱られたのだが、怒られた当人は酔っぱらったことをぼんやりとしか覚えていなかった。
「黒鋼先生がお酒に酔ったらどうなるのかしらね。ファイ先生も気にならない?」
「それは……、気になりますねー」
仏頂面が砕けて笑い上戸になるのかもしれない。そんなことを思っていると、侑子は棚の中からすらりと美しいボトルを取り出してファイに見せた。繊細な蝶のデザインが施された綺麗なラベルが貼られている。
「それってお酒ですかー?」
「ええ。私のお気に入りよ」
学園の理事長室に当然のように酒があることについてファイは特に何も思わなかった。理事長室は侑子の私室でもあるし、一応は人目に触れないところに置いてあるのだ。黒鋼だったら侑子に色々と言ったのかもしれないが。
「とーっても美味しくて飲みやすくて、ちょっと強いお酒だから、これなら黒鋼先生も酔うかもしれないわね」
「じゃあ、次の宴会の時にそのお酒を黒様先生に飲ませてみたらもしかしたら……」
「あら、それじゃだめよ。黒鋼先生が酔う為に一番必要なのはファイ先生なんだから」
「え?」
「素直に甘えられる相手じゃなきゃ黒鋼先生は酔ったところを見せたりしないわ。お酒にも人にも飲まれないように適度に加減するんだもの。ファイ先生とふたりっきりで、美味しくてちょっと強めのお酒を飲む。黒鋼先生が安心してお酒に酔える相手なんてファイ先生だけよ」
「そ、そうかなぁ……?」
「ということで、これはファイ先生にあげるわ。黒鋼先生にぜひ飲ませてみてちょうだい」
「いいんですか?このお酒、高そうですよね……、このまま貰っちゃうってのはやっぱり悪い気が……」
「いいのよ。そのかわり、ファイ先生にしてほしいことがあるの」
「オレにですか?」
「ええ。黒鋼先生が酔ったら、どんなことをしたのか、どんなことを喋ったのか、それを私に教えてほしいのよ」
「……えーっと、それだけですか?」
「そうよ。何があったのか余さずに全部、私に教えてくれること。それでいいわ」
「それなら……わかりましたー、じゃあこれ、ありがたく貰っちゃいますねー」
「ふふ、どうぞ」
ファイが蝶のラベルのボトルを嬉しそうに抱える。密やかな企みに心が弾み、侑子がファイに要求した対価についてこの時は深くまで考えていなかった。
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