鈴ケ森刑場跡

□鈴ケ森刑場跡
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当時の東海道沿いの江戸の入り口とも言える場所にこの鈴ケ森刑場があるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。

最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安事件の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。
反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑に
された。
その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒といった人物がここで処刑された。

当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている

旧東海道と国道15号の交差する部分で激しく車が行き交う交通の要路に数10万人の怨念と血と涙を吸い取った鈴ヶ森処刑場があり、この一角だけ周囲から隔離された場所のような雰囲気だ。
元来、人通りの激しく人目に付くところで、凄絶な処刑を行い、見せしめの効果を狙っていたのだろう。


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