生贄
□其れは子どもの様な、
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「この傷は何だ」
俺に言い寄る男は何時もそうだった。
自分は縛られるのが嫌いなくせに独占欲ばかりが強い。数多の敵を前に背中合わせに戦ったニヒルなあの男もそうだった。
いや、今でもそうだと信じて疑わないが、今のあいつは過去に帰因する妄想ばかりを追っていて話にならない。
可哀そうに、片目になって視力が落ちたんだろう。
「見りゃ分かんだろ。物の見事な刀傷さ」
「そうじゃねェ。一体誰にやられたんだと聞いている」
「少なくともお前にゃ出来ない神技だな」
何食わぬ顔で街ゆく女の視線をかっさらい、隠し持った強欲な魅力で寝床の娼を意のまま鳴かす。
自ら偽悪を行い泥をかぶりながらも、必要以上にそのことを見抜く部下は上司を愛す。刀に腕と魂を食われたあの盲目の男も、常に上司の命を狙っているあの少年もきっとそうなのだ。
欲しい物は何でも手に入れてきた彼らにとって、檻を無視して縦横無尽に動き回るこの存在は目障りに違いない。
だからこそ俺は全てを与えたりはしなかった。
「…折角二人きりなのに色気のない」
「てめーが質問に答えてからだ。…今日も野郎の匂いがするな」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「これ以上好かれる必要もない」
「とんだ勘違い野郎だ!何時俺がお前を好きだなんて言った」
しかしこれ程に酷くされたことは今まで無かった。あの男でさえ、自分を求める時は白粉を洗い流してきたものだ。
しまったと思った時にはもう遅く、応急処置をしただけのそこに激痛が走る。
目の前を掠めた袖からは女の甘い匂いと煙草の苦い匂いがした。
「折角手当てしたのに何すんだ」
「今回はこれで許してやる。本当なら刀で抉ってやりたいところなんだがな」
「何で上から目線なわけ」
深さは均一なままに、右胸から鳩尾を抜けて骨盤まで伸びる鮮やかな赤い筋。その上に荒々しい爪跡が乗せられた。
包帯さえも纏っていない為に鮮血が脇腹を伝い、乱れていないシーツに染みていく。
開けさらしの窓から入ったぬるい風が、いつの間にやら胸元に散らばっていた黒髪を揺らした。
――母親の背中に縋る幼子だって、知っている。暗幕に散らした宝石の様なあの星を、裾を引いて地に落とすことなど出来ないのだと。
あの男だって知っている。地上の花を星に見立てたところで、その全てを手に入れることなど出来ないのだと。
分かっていながら其れをやめることが出来ない俺たちは、なんて純粋で愚かなんだろう。
奪われてばかりで何一つ手に入らないのこの行為が急に虚しくなって、拒絶の意を示すために身を捩ると腰を掴んで固定された。
「今日はもうそんな気分じゃない」
「残念ながら俺は違う」
「何でそんなにがっつくんだ」
「初めに誘ったのはお前だろう?」
傷口がぴりぴりと痛む。土方は顔も上げずに問いに答える。
「…そんなに俺が欲しいのか」
それが無性に腹立たしくて、ついうっかり口が滑った。
これではまるで欲しがるのを期待してるみたいじゃないか。最悪だ。
しかし、顔を上げた土方の表情は意外だった。口元の血を手の甲で拭う様はそのぎらついた目によく似合う。
後頭部に回された手のひらに押されて顔が近付いた。
「全部寄越せ」
これだから顔のいい男は困る。従順に目を閉じてしまうのは惚れた弱みと言う奴か。
弱者は帰属を求めて諂うもの。そして餌が与えられなければ死に絶える家畜の様に、この凶暴な独占欲は閉じ込めながら俺を生かす。
元来俺は人を従えるような器じゃないし、暫くは飼われてやってもいい。
「そんなに欲しいなら仕方ない。今だけはくれてやる」
「生意気な奴だ」
「…どっちが」
だがいつか、我儘放題のこの男に「お前をくれ」と泣き縋らせ、俺以外のものを全てを捨てさせてやろう。
腹に畜生らしからぬ大望を抱きつつ、ご贔屓を求めて腕を首に回した。
もしお前が苦味ばかりの香りを纏って俺を誘ったなら、此の刀傷があの男との手切れ金だったと教えてやる。
咥内に広がる鉄の味にずくずくと傷が痛みだし、仕返しとばかりに背中に爪を立ててやった。
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