生贄

□そのすべては杞憂なのだけど
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例えばそう、番傘を片手に玄関へと向かう後ろ姿が見えた時だとか、その小さな背中が扉の向こうに消えていく瞬間だとか。自分の目が決まってその背中を追っていることに気が付いたのは大分前だった。
特に考えもなしに「気ィつけろよ」と言うと心配要らないと返され、かなり適当に、だけれど自然と出ていたその身を気遣うような言葉に自分で驚き嘆息した。
何処ぞの男と共に朝帰りなんてしたらどうしようか。そんな風に考えている俺はまるで娘に煙たがられる父親みたいだ。

「ただいまヨー」
いつの間にか眠っていたらしい。はっと息を吸い込もうとしたら、夢と希望に満ちた少年誌の紙面に呼吸を邪魔されて大いに噎せた。
顔に乗ったそれを退かすと窒息から解放され、視界も開けて眩しくなる。
「あれ、早いな」
「コンビニなんて走ればすぐネ」
「いやそうでなく」
その細い脚が人外の(まあ実際に天人なんだが)力を備えているのは身をもって知っている。だけど俺が言いたいのはそう言うことじゃない。
「じゃあ何ヨ」
「いやだから…あ、ちょっと神楽。こっち来てみ」
寝起きの重たい体を起こしソファに座り直して手招きした。
少し汗ばんでいるらしい足の裏でペタペタと音をたてて近付いて来る。
そして目の前に来たところで珊瑚色の頭を上から押さえて座らせ、最近やたらと色や形を変える鮮やかな髪留めをとった。

さらと落ちた髪を手ぐしで束ねる。まとめにくいかと思われた嫌みなまでの直毛は案外言うことを聞いて扱いやすい。
その髪の持ち主はと言えば、最初こそ首を捻って後ろを見ようとしていたものの、俺が何をしているか分かると直ぐに大人しくなっていた。何時もこの位静かなら良いのに。
「いたっ!何するネ!」
「余りにも真っ直ぐなもんだから引っ張りたくなった」
「自分が天パだからって嫉妬すんなヨ」
「るせ」
文句を言いつつも、俺の膝の間に収まったままなのが嬉しい。

軽口を叩くうちに作業は進み、初めて人の髪を結ったにしてはかなり上手く仕上がった。目の前の頭をポンと軽く叩いて終わりを告げる。と、そのまま頭が傾いて膝に乗ってしまった。
「神楽?」
返事はない。屍ではないけれど。
今から寝たらまた夜中に眠れないと言って起こされ白飯を炊くことになってしまうかもしれない。そう思って肩に手を掛けたが、その上下運動に合わせて聞こえる小さな寝息に気を削がれた。

そのまま上体を倒す。体重を受けてめり込んだソファを髪留めが転がる。
「いつからだっけなァ」
洗面所に籠もる時間がやけに長くなったのは。やたらとめかし込んで(つっても化粧はしてねぇけど)外出するようになったのは。
その背中を目で追うようになったのは、そう、あのハゲが来てからだった。
在るべき場所に戻る為の期限付きの居候。ただいまの声を聞くのはあと何回だろうか。
付けたばかりの安い簪。目頭が少し痛んだのは、それが夕日を反射して眩しかったからに決まってる。



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