彼女の幸せ

□悲しみの刻
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それは冷たい雨の降る冬の日だった。

小学生となった武と茉莉は、授業中に教頭に呼ばれて廊下に出された。

「すぐにお家に帰りなさい」

言われたのは、それしか覚えていない。



武と急いで家に帰ると、隣の家のおばさんが待っていてすぐに車で病院に送ってくれた。


病院で二人を待っていたのは、白いベッドに横たわり動かない夏江と、その前で俯く剛だった。

「…母さん…?」

ふらりと歩み寄る武とは違い、茉莉は既に理解していた。
前世では何度も見ていたから。

朝、隣のベッドで「そう」なっている人間も少なくなかった。

きっと自分もそうだったのだろう、と茉莉は思う。


ただぼんやりと、夏枝の優しい笑顔と暖かい手を思い出していた。






葬儀は身内だけでひっそりと行われた。
火が消えたような家の中、茉莉は未だぼんやりとしていた。

喪服のまま、自分の部屋の隅に座って窓の外を眺める。

優しい母にもう会えないのだと思っても、ひどく悲しいはずなのに涙は一滴も流れなかった。






夕方。

真っ赤に染まる町に、茉莉は一人佇んでいた。

真っ黒なワンピースを着た日本人形のように愛らしい少女は人々の視線を集めたが、その頼りない歩みが止まることはなかった。

ふらふらと茉莉が辿り着いたのは、たった数日前に家族でピクニックをした河原。
剛と武はキャッチボールをし、茉莉は夏枝と花冠を作った。

たった7年だったけれど、優しい優しい母だった。
愛想のない(表情を出すのが苦手なだけ)茉莉でも、見放すことはしなかった。
最大級の愛情をくれた。

「…………おかあさん…」

もう、会えない。


大きくなったら、もっと家の事を手伝って、二人で料理をしたり、買い物に行ったりしたかった。
女の子同士の話(がどんなものかはわからないけれど)もしたかった。

たくさん、大好きと言いたかった。

言えば良かった。



「茉莉?」

今まで無音だった茉莉の世界に突然、音が戻ってきた。

振り向くと、そこには久しぶりに見る恭弥の姿。

「こんな時間に一人でいたら危ないでしょ。何してたの?」

いつもと変わらぬ彼に、知らず安堵した。

「きょうちゃん…」

名を呼ぶ幼い声が震えていたことに気付いた恭弥は、眉を顰めて彼女に歩み寄ると、その柔らかな曲線を描く頬に手を添えた。

「どうしたの、茉莉」
「…おかあさんが…しんじゃった」

ぽつりと溢れた言葉のわりに、その表情に変化は見られない。
泣けないのだ、とすぐにわかった。
人は、悲しすぎても泣けなくなるのだと、この時既に恭弥は知っていた。

「茉莉。泣いていいよ。誰も君を責めたりしない」

その言葉が鍵だったかのように、茉莉は表情のないままぼろぼろと涙を流した。

「きょうちゃ…おかあさんに…あいたい…っ」

ひとりはイヤ。
こわい。

小さな声で必死に訴える茉莉に恭弥は眉を寄せて彼女の自分よりも小さな体を抱きしめた。

「一人になんて僕がさせないよ」

君は僕の傍にいればいい。

そんな台詞に、茉莉は何度も頷いた。
















その後、家の前まで送ってくれた恭弥に礼を言って小さく手を振って家に入った茉莉を待っていたのは、父と兄からの抱擁だった。



「今までどこにいたんだ!」

いつもは穏やかな武に怒鳴られ、小さな体を更に縮こませて目を潤ませる茉莉を見て、剛は武を宥めてから、苦労して茉莉と目の高さを合わせた。

「茉莉。どこにいたんだ?」

柔らかな声音に気付き、茉莉はおずおずと唇を開いた。

「どて。みんなで、ピクニックにいった…」

言いながら溢れてきた涙を必死に拭うと、剛に強く抱きしめられた。

「我慢させちまったなぁ…すまねえ、茉莉」
「ごめんな、茉莉」

謝る二人に首を横に振る。

「だまっていなくなって、ごめんなさい…」

父と兄の優しさが嬉しかった。
前世では知らなかった愛情が、ここにはある。



ひとしきり泣いた後、茉莉は父と兄に潤んだままの瞳を向けた。

「おとうさん。おにいちゃん。きょうから、茉莉がおうちのことする」
「茉莉?」
「だけどな茉莉…」
「だっておとうさんは、おしごと…あるでしょ?おにいちゃんは、やきゅうがあるもん…。茉莉は、おとうさんとおにいちゃんの、おてつだい…したい…」
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