短編置き場

□松永と恵方巻き
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リビングの壁に掛かっているアナログの丸い時計が丁度ぴったりと七時を指した。既に外界を支配した暗闇は厚いカーテンによって遮断されており、その室内は静寂に包まれていた。ダイニングルームに置かれた長方形の大きめのテーブル、その脇にはこれとセットとなっている二つの椅子。その一つに座る彼女は、さっきから自分の斜め下に顔を傾けたまま微動だにしない。視線の先には、平たい皿の上に置かれた一本の太いのり巻き。


「何ですか、これ」
「何って、今日の夕餉に決まっているではないか」
「これだけ?」
「足りないかね、ならば吸い物でも作ってやろう」


男女二人が囲むテーブルの上にはぽつんぽつんと、皿が二枚。これは何だと尋ねれば男の口からさも当然の如くそのように答えが返って来るので彼女はむっとし思わず顔をしかめた。女の真向かいに座っていた久秀は終始穏やかな笑みを貼り付けたまま、席から立ち上がるとテーブルを回り込んでキッチンへと向かった。


「二月の三日、卿は今日が何の日か知っているかね」
「節分、でしょう?」


節分とは季節の移り変わる時の事で、特に立春の前日、つまり今日を指す。その日に豆撒きを行い無病息災を願ったりする訳なのだが、そこで久秀は、今年は私達も行ってみようではないかと珍しく近所のスーパーマーケットへ出向き所謂、恵方巻というものを初めて買ってきたのだった。これこそ彼の単なる興味本位に過ぎないのだろうと彼女は思って溜息を吐いた。


「なに、たまにはこういう奇妙な伝統に触れてみるのも良いではないか」


とか言いつつの買い食いかよ、料理の手間なんか省いちゃって!女は心の中で彼に文句を投げ付けた。お吸い物を作りにキッチンへ行った久秀は、卿は先に食べていたまえと、カウンターの向こう側に居る相手に僅かながら視線を注ぎつつ言った。いかにも紳士的な振る舞いだが、手元ではサラサラサラと爽やかな音を立てて汁の元を小さな袋から出しているのだった。その気配に気付いた彼女は、それすらインスタントですか!と再び静かに突っ込みを入れた。

まあ、仕方あるまい。普段休みの日などはよく彼には手の込んだ素敵な料理を振る舞ってもらっているのだ。たまにはこんな日も悪くないか。そう思い直して彼女は改めて目の前の太巻に向き合う事にした。
恵方巻き───節分に食べると縁起が良いとされる巻き寿司。節分の日の夜にその年の恵方を向かって目を閉じ一言も喋らずに願い事を思い浮かべながら太巻をまるかじりするのが習わしである。早速黒い物体を両手で皿から持ち上げる。たしか、今年の恵方は。



「西南西は、こちらだよ」



その言葉に久秀の方へ振り向き、彼がぴっと示した指の方向を見る。礼を言うと、彼女は恵方である西南西、結果的にキッチンに立つ久秀に向き合う形となった。くるりと身体ごと向きを変え椅子の上にちょこんと正座する。面白いことに、慣れない行為に幾らか緊張しているらしく、それは目の前の男の顔にちらりと目を向け肩をすくめてはにかむ。


「あの、じゃあ、お先にいただきます」


両手に握る黒い太い棒に再び目線を戻すとゆっくりとそれを口に近づけ、くわえてみせた。むぐ。中々噛み切れない海苔の硬いような柔らかいような微妙な感触に苦戦しつつもむしゃむしゃと食み、でんぶの独特な甘みを噛み締めた。両手でしっかりと掴んだまま物を頬張る様はさながら仔リスのようで。それはまさに、無我夢中。が、しかし。



「いやらしい食べ方だな」
「ぶっ!!」



カウンター越しにその光景を眺めていた久秀が突如口にした言葉に仔リスは喉を詰まらせげふんげふんと咽せ返った。その憐れな彼女の姿にすら、男は意味有りげな妖艶な視線を送り続ける。

「な、何考えているんですか!私は今……、」

卑劣な発言に咄嗟に批判した仔リスだったが、その言葉は途中で打ち切られた。あ、と情けない声を漏らす彼女の顔はみるみる真っ青になっていく。食べてる最中に、喋っちゃった。

「はっはっは、これで今年の卿に福が訪れる事は無くなったな」

食べかけの太巻きを前にすっかり落胆してしまった彼女を見据えながら、来年も楽しみだと男は心の底でくつくつと笑った。





神様だって知らないよ!






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