イナズマイレブン
□ただいま
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予備校の窓から外を見ると雪がちらついていた。都心ではなかなか降らない雪に、少し気持ちが高まると同時にまた来なかったと寂しさが募る。
あれから1年と少しが過ぎた。
始めのうちは頻繁にやりとりしていたエアメールも、僕が受験生になると回数も減り、夏くらいから連絡はぱったりと途切れた。何回計算してもいつ皆帆くんが来てくれるのか、僕には到底分からなかった。そもそも来てくれるだろうか……たまに、そんなことさえ思ってしまう。
「そんなわけないじゃないですか……」
机に突っ伏して目を閉じる。
一番自分の本心を見せることをしなかった皆帆くんが泣いて、僕の元へ来てくれると言ってくれたあの日。はじめてのキス、はじめての恋人……あの日のことは、昨日のことのように鮮明に僕の記憶に焼き付いていた。
恋い焦がれている。期待している。恋人として共にした一日限りのあの時を、身体中が火照って僕の中を支配したあの人の声と、こころを僕は求めている。
うわのそら……。
机に置かれた問題集の言葉がただの記号になっている。大事な時期だというのに身に入らない。こんなことじゃ、僕に気を遣ってくれている皆帆くんと再開したときに顔向けができない。
「皆帆くん……」
そうだ、僕は僕で頑張らなくては。皆帆くんは皆帆くんで頑張っているのだ。
体を起こして喝を入れ机に向かうと、突然頭が冴え渡る。皆帆くんは僕にとって証明しきれない魔法か何かのようで、気付けば閉校時間まで黙々と問題を解いていた。
ひとり身支度を整えながら腕時計に目をやると、11時をとうに過ぎていて慌てて両親から連絡がないかと確認した。何も来ていない連絡に、自分がひとり暮らしをしていることを思い出しため息をついた。
いや、これが僕の望んでいた生活だ。少し寂しい気持ちも、好きな数学と向き合えば紛れているのだと思い込む。
生徒の居ない予備校はがらんとしてさらに僕の寂しさを加速させた。早く帰宅してもう眠りについてしまいたい。
足早に外へ出ると、雪がまだやまずに降っていた。
「もしかしたら明日には積もっているかもしれませんね」
伸びをして、帰路につこうとすると、人影があった。暗くてよく見えない。不審に思って目を凝らすと心臓がとくんと音を立てた。
僕に気付いてこちらへ歩いてくるその人。淡い街灯に照らされたその人に、塞いだ口から嗚咽が漏れた。
「見つけたよ、真名部くん」
にっこりと微笑んで、やあ、と手をあげる皆帆くんに駆け出す。
僕を抱き止める皆帆くん。冷たい。雪の中、ずっと僕を待っていてくれたのか。
「夢、みたいですっ……!」
「非現実的なことを言うね。君らしくないよ」
「心拍数毎分67、体温35.3度、歩幅も挨拶も…あなたは…皆帆くんです」
真名部くんは体温計みたいだね、と笑って体を離す皆帆くん。僕のみっともない泣き顔に、呆れた顔ひとつ見せない笑顔。
あの時から変わらない。ずいぶんと成長しのだろうと思っていた分安心する。
「それより、どうして僕の居場所を特定できたんですか?」
涙を拭いて訊ねると、皆帆くんは人差し指を横に振った。
「僕は探偵のタマゴだよ。君の身の丈にあった居住区、学力、生活サイクルを考えたまでさ」
相変わらず彼の解析もよく当たる。
「そうですか。それで皆帆くん、今晩はどうするつもりなんですか?」
「親には帰国の日程を言っていないんだ。つまり僕の親は僕がまだイギリスに居ると思っている……真名部くん」
皆帆くんの手が、僕の手を握る。
「数日泊めてくれないかな?」
「もちろんです」
*
二人で手を繋いで冬空の下を歩きだす。誰よりも一番会いたかった人が目の前でイギリスでの土産話をしている。
彼と居ると、僕の計算はすべて狂う。それがとてもうれしい。数式でも言葉でも表せられないくらいの幸福が僕の体の中で溶けだした。
どうかこの幸福が、この手を伝わって皆帆くんに伝わりますように。
すると皆帆くんはぴたりと話をやめて僕を見た。見つめあって、目を伏せて、僕たちはゆっくりと顔を近づけてキスをする。
「まだ、言ってなかったね……ただいま」
「おかえりなさい、皆帆くん」
僕たちの新しい始まりが、錆びた音を立てながら時を刻みはじめる。