雑歌

□瞳の裏側
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 長い戦いの、始まりだ。






 時計の秒針がカチ、カチ、と時を刻む音だけが響く。遠くに笑い声や走る音などが聞こえるが、この部屋は本当に静かだった。
「……」
 部屋にいるのは二人だけだ。片や紙の束を熱心に見つめ、片やそれを熱心に見つめる、何とも奇妙な光景。
 どちらも何も言わず、ただ秒針の音と時折紙をめくる音だけがこの部屋にはあった。
「……伊達」
 目の前の書類にだけ集中していた部屋の主である保健医・片倉小十郎は、ついに耐えきれなくなって口を開いた。
「政宗って呼べよ」
 声をかけられたこの部屋のもう一人、伊達政宗はどこか嬉しそうな顔で、まるで返事のようにそう返す。その言葉を聞かなかったことにして、小十郎は彼を見た。
「ここで、何してる?」
「センセと二人っきりの時間を楽しんでる」
 平然とそう宣う政宗に、小十郎は眉間に皺を寄せる。それを気にも留めず、政宗はにこ、と微笑んだ。
「すっげぇ幸せ」
「……用がないなら早く帰れ」
「あ? ……あと10分38秒あるからもう少し」
 眉間の皺を深くした小十郎に、政宗は一度自分の時計を見てからそう返す。それに何も返せず、小十郎はこめかみに手を当てた。
『1日、1時間だけなら、ここにいていい』
 つい1週間ほど前に交わした約束。政宗はそれを忠実に守っていた。わざわざ、タイマー付きの腕時計を持ち込むほどに。
 まず昼休みにやってきて、小十郎の目の前で60分のタイマーをかける。昼休みは大体20分から30分ほどでタイマーを止め、保健室を出ていく。そして放課後にもやって来て、規定の時間が来るまでここで過ごしていくのだ。
『約束は守ってるだろ?』
 そう言われては、小十郎に反論する術はない。事実、あれから政宗は問題行動を起こしていないし、1時間を越えて保健室に居座ったこともないのだ。この約束を持ち出したのは小十郎自身。文句を言えるはずもない。
「何でそんな顔すんだよ? 仕事の邪魔だってしてねぇだろ?」
 険しい顔の小十郎に、政宗は怪訝そうな顔をする。小十郎は首を横に振って、再び書類に視線を向けた。
『言ったのはセンセだからな。1時間、充分だ。毎日1時間で、絶対落としてみせる』
 そう宣言していた政宗。小十郎は、一体毎日1時間何をされるのだろうと身構えていたのだが、政宗は毎日特に何もしない。ただ小十郎の傍にいて、小十郎をひたすら見て……
『俺、センセの傍にいる時間が一番幸せだ』
『こんなに幸せな時間はねぇよ。ずっと、ここにいてぇ』
〈……何もしないが、やたらに変なことは言うな〉
 ただひたすら小十郎を見つめながら、政宗は甘い愛の言葉を繰り返す。それは大概、聞いている方が恥ずかしくなるようなセリフばかりで、やめさせようとするのだが、
『俺は自分の素直な気持ちを正直に言ってるだけだ。何が悪い?』
と、政宗にはまるでやめる気配がない。素直すぎるのも問題だと言ってやりたかったが、『会いたい』という理由だけで怪我をする彼のことだ、そう言ったらとことんひねくれるに違いない。
〈こいつは、どうも接しにくい……〉
 保健医という職業柄、高校生との接し方はある程度慣れているのだが、政宗はそんな括りを軽く飛び越えていた。おかげで政宗と会う度、小十郎は戸惑いと困惑で頭が痛くなる。
「センセ、眉間に皺寄せすぎ……っと」
 怪訝そうなままの政宗のカバンから電子音がした。どうやら彼の携帯電話が鳴っているようだ。
「お前……持ってくるなとは言わねぇが、せめてマナーモードにしとけよ」
「悪ぃ、忘れてた」
 小十郎の小言に政宗は軽く笑ってみせる。そのまま携帯電話を操作しているので、電話ではなくメール着信だったらしい。
「放課後だったからいいが、授業中だったら取り上げ……伊達?」
 小言を重ねようとして、小十郎は政宗の様子がおかしいことに気付いた。
 何故か、彼は携帯電話の画面を見つめたまま動かない。それまであった笑顔は消えて、恐怖と嫌悪がない交ぜになったような、複雑な表情を、血の気の失せた顔に浮かべていた。
「伊達……?」
「……っ!」
 もう一度声をかけると、政宗はバッと顔を上げる。一瞬だけ小十郎に驚愕の表情を向けたが、すぐにそれを引っ込めた。
「……何だよ?」
 そして、力ない笑顔を浮かべる。血の気の戻らない顔では、それはただ痛々しく見えて。
「伊達……何か、あったのか?」
 手を、差し伸べずにはいられない。
 小十郎の問いに政宗は首を軽く横に振った。


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