雑歌

□揺れる傘
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 夜の雨は、ひどく冷たい。それに濡れれば、なおさら体温は奪われる。
 しかし、今の佐助はそれでさえ収まらない熱に苛立っていた。
「……はっ……は……っ」
 全速力で木々の間を駆ける。雨が激しく顔に打ち付け、全身余すところなく雨で濡れていたが、佐助は止まらずに走った。
 振り払うかのように。
「くそっ……」
 その顔が、歪む。苛立ちは収まることなく、未だ体は熱に支配されたままだ。
『俺は、本気だ』
 目の前にちらつくのは、残像。
『冗談なんかでこんなこと言えるか』
 濃い紫色の傘が、ゆらゆら揺れる。息が弾むほど駆けても、それが薄れることはない。
『佐助』
「うるさいッ!」
 残像を振り払うように頭を激しく振る。その勢いか、足がずるり、と滑った。
「!!」
 そのまま地面に落ちる。さほど高さがなかったのと、一応受け身をとったので、大した怪我はしなかった。
「……チッ……」
 まさか落ちるなんて。舌打ちをして立ち上がり、佐助は空を見上げる。
 暗い夜の森の中、見えるものはない。けれどその暗闇に、未だ濃い紫の傘が揺れる。佐助は眉間に皺を寄せ、俯いた。
『今すぐ、全部とは言わねぇよ』
 荒くなった息を整えようと深呼吸を繰り返す合間にも、それは止まらない。
『けど、いつかきっと』
 冷たく切り捨てたはずだった。希望の欠片さえ与えないほど。けれど紫の傘は、くるりと1回転するだけだった。
『でもお前は、俺の言葉に動揺してる』
 その声が揺らぐことはなく。
『それがいい証拠じゃねぇか』
 逆に佐助を強く捕らえて、まるで心の臓に小刀を突き立てるみたいに、真っすぐに迷いなく佐助に届く。
『お前、俺のこと』
「違う……!」
 思わず声が出た。まったく同じ言葉を吐いていることに気付いて、佐助は拳を握り締める。
 濃い紫の傘が、動きを止める。傘の際から白い口元が覗いて、引き寄せられるようにそこを見た佐助は、カァっと頭に血が上ったのが分かった。
 それは、笑っていた。
『ほら、な』
 自分は忍で、だからこそ何があっても冷静でなければならない。しかし佐助は一瞬我を忘れ、己の拳をその頬に叩きつけていた。
 ハッと我に返って見れば、紫の傘はそこから少しも動くことはなく。
 口の端に血が滲んでいるのに、その形はまったく変わることがなかった。
『言った通りだろ』
「くそっ……!」
 残像が断片的に佐助を襲う。どうしようもなくなって、佐助は思い切り木の幹に拳を打ち付けた。
 こんなことで、こんなにも揺るがされるなんて。
 自分は完璧な忍だという自負が、佐助にはあった。相手を揺るがせても、自分は絶対に揺るがされない。そして、自分の心を他人に晒すなど、決してあってはならないことだ。
 戯れならともかく、そんな邪な感情に惑わされている暇なんてない。そんなもの、自分からは、全く遠い感情だ。―――その、はずなのに。
「俺様はっ……忍なんだよっ……!」
 それはむしろ自分のための言葉だった。こんなの間違っている、こんなことあっていいはずがない、と、そう否定したいがための。
 濃い紫の傘は、ゆらりゆらりと揺れながら、少しずつ佐助に近づいてくる。言い様のない戸惑いと恐怖に佐助が後退りをすると、残像がまた佐助を襲った。
『そうやって、逃げんのか』
 これ以上は意味がないと、佐助が去ろうとした時。咎めるわけではない、しかし強い声に、佐助は答えられなかった。
 逃げる? 何から? 否、どっちから……?
 それさえ、はっきり分からず。
 何も答えられないことを、他の誰かのせいにしたかった。
 否と答えて佐助は瞬時に木の上に上がる。視線に振り返って、しかしそれを後悔した。
『佐助』
 濃い紫の傘の下から現れた、銀色。
 それを際立たせるような、紫の眼帯。
 そして、眼帯に隠されていない、右の瞳が。
 捕らえた。
「……俺様は……」
 再び、空を見上げる。雨は止むことなく、むしろ先程より激しさを増したようだ。雨の音はうるさくて、けれどそれ以外の音はしない。
『佐助』
 本当はもう、分かっているのかもしれない。
 そのうえで、認めたくないだけなのかもしれない。
「……俺様、は……」
 近付いてくる紫の傘に、佐助はただ、目を細めた。
 忍だとか、敵国とか、そういうことではなく。
 自分自身が、ただ、あの男を、恐れているだけ。
 あの男を、あの瞳を、あの声を、あの心を。
 ただひたすら、恐れているだけということ。
『佐助』
 濃い紫の傘は、もう目の前まで。
『俺は、お前が好きだ』




 この傘から、きっともう逃れられない。
 夜を迎える度、心を乱されるのだろう。
『お前は、俺のこと―――……』
 何もなかった夜が、懐かしくさえ思えた。


《end。》
 

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