どマイナー夢

□泣かないで、美しい人
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私は同性愛者だ。
自覚はしているし今まで愛した人たちは皆、同性だった。
けれど、この陽だまりのようなあたたかさを心が欲してやまない。
彼女は、女性だというのに。



沫咲さんとは偶然知り合った。
友人として数年を過ごし、ある日彼女がずっと誤摩化し続けてきた彼女の職業を知った。
いや、正確にはずっと隠し続けていた"もうひとつの職業"だ。
沫咲さんは大学にとどまって研究を続けている、いわゆる助手である。しかしもうひとつの顔があった。
それは小説家という顔だ。
別段隠すような仕事では無いでしょう、そう言ったときに彼女は少しだけ困ったように笑っていた。
名前を教えてほしい、と言うと彼女はそれを断った。
私は彼女が断る理由がわからず、偶然家の外で出くわした彼女の編集担当者に彼女のペンネームを聞いた。
本屋に立ち寄って彼女のペンネームを探し出す。
"本森 司"と言うペンネームは著者が男性なのか女性なのか、一見分からない。だがそれは確かに沫咲さんが書いた作品なのだ。
本にかけられた帯を見ていくと<受賞作品>と大々的に評価されており、私はそれを購入した。

衝撃的だった。
殺されてしまう…、本に取り殺されてしまうとさえ思った。
暗闇の中を永遠と彷徨うような、苦しさ。
身体中から酸素を抜かれていくような、飢餓感さえ覚える息苦しさ。
気を抜けば底の無い世界に引きずり込まれて、なにもかもを失う。
沈んだ人々は沈んでいることを理解していながら、それを甘受してしまうのだろう。
甘い責め苦を、自分の両腕で大切に抱いてしまうのだ。
世界に沈みきり本を読みきった後には無用の長物となった目も耳もすべて退化して、読者はただの種になってしまうのだろう。
母親の胎の中にいる時のような絶対的な安心感と孤独を抱えて、ただ漂うだけの生命になる。
そんな、軋むような言葉運びとストーリーは、一部の間でカルト的に崇拝されているらしかった。
私は名前すら知らなかった彼女の本を手に取り、読み始め、10ページも行かないうちに本を閉じた。
行間から悲鳴が聞こえるような彼女の作品を、私は読みきることはできなかった。
ともすれば魅入られてしまいそうになる。世界から抜け出すことができなくなり、自分が自分でなくなってしまう。
それが恐ろしくて、私は全身全霊の力を持って甘美な悲恋物語から目をそらした。


***
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