どマイナー夢
□泣かないで、美しい人
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いつものように沫咲さんの家で逢瀬を重ねる。
いつだったか男をこうも簡単に家に招くのは良くない、と苦言したことがあった。
その時沫咲さんは一瞬間を置いてから、そうですね、と笑った。唇は上手く弧を描けていなかった。
「貴女の本を、買いました」
「読めましたか」
すぐに返ってきた言葉がそれで、私はどう答えるべきか悩んだ。しかし私よりも先に沫咲さんがくすくす、と甘く軽く笑った。
「沈黙は肯定です。…どの作品でしょう?」
「…すみません」
「いいえ」
陽だまりの主は、未だに笑っている。
その細い指と沢山の知識と大切な言葉と思いで紡いだ物語を、読めなかったと馬鹿正直に話す男を許しているのだ。
「私の生み出す作品はどれもが永劫の闇の中を彷徨うような…救いようの無い物語です。…読めなくていいのです。
深海で読書をする人など、普通はいません」
微笑んで、黒い瞳が緩む。
こんな風にぬくもりを感じられる笑みをもらす人が、読むだけで取り殺されてしまいそうなあの本を書いたのだ。
背筋を伸ばして凛とたたずみ、微笑む人。この美しい人が書いた作品の多くが悲恋の物語であると、誰が想像できるだろう。
沫咲さんの言葉には暖かみがあって日頃感じることを拒んでいる私の心でさえ緩ませる力を持っているのに、どうして小説の中ではあんなにも冷え冷えとした世界を創りあげるのだろう。
上下左右の感覚すらなくなってしまいそうな闇を、つくりだすことができるのだろう。
怪我をしたことも無いような、美しい人。
誰かから嫌みを言われたり、嫌われたりしたこともなさそうな、誰からも愛される太陽のような人。
人を恨んだり、憎むことなどもってのほかだろうと思わせる、清廉とした心の持ち主。
そんな彼女のどこに、闇があるのだろう。
同性愛者として生きてきて、世界を恨んだことは幾度となくあった。
自分が"こう"生まれついたことを憎んだこともあった。
ーーーこんなふうに、沫咲さんも何かを恨んだことがあるのだろうか。