□すべてが
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後輩指導のために行った午後練習は、レギュラー以外の平部員にとって地獄の特訓になってしまった。
元レギュラーである仁王が熱の入った指導をしてくれたおかげである。
ストレス発散。機嫌がいい。八つ当たり。テンションが高い。
どれにも当てはまるようで、どれも外れているその言葉たち。
仁王自身も心中穏やかではないという態度のまま指導を続け、仁王にしては珍しく疲弊するまでテニスを続けた。

暗くなった帰り道を歩きながら、仁王は複雑な心境を整理していった。
午前中のコンクールでやっと声の主の顔を見ることができた。
ストレートの黒髪がつややかで、微笑む表情は美しく、心から楽しそうに歌う人だった。
柔らかそうな、薔薇の蕾のように赤い唇から歌が紡がれる。
空気を震わせる崇高な高音は、仁王の身体中の血を沸騰させるかと思うほど、衝撃的な美しさだった。
ただ、問題は。

ーーー名前、じゃ

声をかける暇はなく名前を知ることも知り合うこともできなかった。
それがどれだけ仁王にとって絶望的なことか。
コート上の詐欺師といわれている仁王雅治のことだ。
春間中学の生徒や教師を言いくるめてかの人の名前を聞き出すことなどはそう難しいことではない。
だが、仁王はそれをしたくなかった。
彼女と自分の瞳を合わせ、手を伸ばせば抱きしめられるほどの近い距離に立ち、仁王の心を意図もたやすく奪うであろう声を、仁王の身体全体で味わいたかった。
その裏には仁王がその人にどうあっても嫌われたくないという思いがあった。
遠ざけられてしまえば、万が一嫌われてしまえばーーー。

ーーーそんなの、嫌じゃ

想像しただけで死んでしまいたくなるほどに恐ろしい。
例え手に入らないのだとしても、例え唯一の人になれないのだとしてもその声が聴ければ、仁王は我慢ができる。
だがあの声をもしも失ってしまったとしたら。


「…思ったより、重症みたいじゃのう」


つい俯くと、僅かに鼻の奥がツンとした。
流れそうになる涙をぐっとこらえて大きく肩で息をする。
だが思った以上に知り合えなかったという事実は心に堪えているらしい。
弱音を吐きそうになる口をぎゅっと引き結ぶと、仁王は必死に虚勢を張って歩き続けた。


***
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