□駆け出そう
2ページ/4ページ

受験日当日。
棗は待機教室の隅で小さくなっていた。
緊張は時計の秒針と共に高まっていき、今にも胃がひっくり返ってしまいそうだ。

ーーー大丈夫、大丈夫。あんなにいっぱい練習した…。榊先生にも完璧だって言ってもらえた…!

けれど心臓はどうあっても速い脈を打つ。
拳を握ると、緊張のせいで指先が冷えていてその冷たさに驚いた。

ーーーどうしよう…、こんなんじゃ、歌えないよ…

歌が好きで、歌でたくさんの人を笑顔にしたくて。
だから倍率が高くても自分で選んだ学校に行きたかった。
誰かのために歌って、その歌がその人の心に届くことが嬉しくて。

ーーー銀色の髪の人の心に、届いたことが嬉しくて

そのためにどんなに厳しくても音楽を続けようと思った。
音楽を愛して、音楽に愛されたいと思った。
片思いじゃ耐えられないから。

ーーー声楽科に入ることも、片思いなんかじゃ終わらせない。彼への気持ちも、片思いじゃ終わらせない…!

目蓋の裏にいる彼は、輝いていた銀髪以外の記憶が時間が経つにつれ曖昧になりぼやけてきた。
もしかしたら今はもう、彼とすれ違っても彼に気づけないかも知れない。
けれど、彼のために歌いたいと思ったことは今でも鮮明で、克明で。
想いは変わらずに、ずっと心の中にある。


「…あなたのために、歌いたいんだよ」


わたしの歌を聴いてくれて、ありがとう。
わたしの歌で泣いてくれて、ありがとう。
その気持ちを。
その感謝を、歌にこめて。


「さぁ、行こう」


どこにも力の入りすぎていない棗の姿は自然体そのもの。
先ほどまで冷えていた指先はいつの間にかぬくもりを取り戻していた。
心を決めた棗はぶれることもなくまっすぐに姿勢良く歩く。
そして重くさび付いた開いた扉の向こうから、溢れんばかりの光が棗を迎え入れてくれた。


***
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ