story

□みをつくし
1ページ/1ページ

覚えている父の手は、冷たく物悲しいものだった。
指先は冬ざれの陶器のようにヒヤリと冷たく、ゴツリと固く骨ばったものであると記憶している。また、仕事柄、木工用具を握り締めていた手のひらには、血豆がよくできていた。
痛々しいその手を見るたび、私はひどく複雑な気分になった。鉈や鑿、金鎚を使わねば仕事はできぬ。しかしそれらを握るたびに父の手のひらは痛みを増やしていく。背に腹は替えられぬと言うが、幼いながらに、身を削る父の姿には、ひどく怖じ気づいていた。痛くはないか。辛くはないか。問うたびに父は穏やかに笑って答えた。「自らが選んだ道」だと。

もしも母がいたならば、多少は違う考えを抱くことができたのだろうか。だが皮肉にも物心つく前に母は私の前から姿を消していた。父には死んだと聞かされていた。父と二人で、父の稼ぎで、父に頼り、私は生きていくしかなかった。そんな非力な自分が何よりも罪悪に思えて、独りきりになった家で虚しさと寂寥を孕んだそれに幾度となく頭を悩ませた。

それから父が木工頭としてあるお屋敷に呼ばれたのは、私の七つの帯解の日であった。宮参りを済ませた夕餉時だ。父宛の書状が届いた。私はまだ教養など身に付いていなかったので、字などところどころ読めない部分があった。しかしその内容はある程度察することができた。呼ばれたのだ。この地方一の、「久世」という大きな屋敷に。

久世家の噂は知っていた。大切な者を失った人間がその悲しみや寂しさ、「痛み」を納める場所である。「痛み」は久世の巫女の体に刺青として刻まれる。巫女は痛みを常世海に流してくれる。……ならば父も、母が亡くなった時に痛みを納めにいったのだろうか。そんな下らない想像を巡らせながら、読めもしない漢字をひたすら眼球で舐めるように眺めていた。

「……ここに帰るのは、難くなる」
「!」
「あちらのお屋敷で暮らさねばならぬ」
「父様は、いってしまう?」

父の顔を、下から探るように覗き込んだ。父は私を見ては苦笑し、一緒に行くかと目を細める。何の躊躇いも否定する意志もないだろう。冷えた手のひらが髪を撫でる。
思えば父の顔を見るのは、この日が最後だったのかもしれない。


それから久世のお屋敷に招かれ、今までとは違う生活が始まった。父は、お屋敷に来て以来面で顔を隠すようになった。久世は女系である。また、儀式が執り行われる場は男子禁制であった。巫女様の目に何人たりとも男は映してはならないのだそうだ。だから、木工頭としてお屋敷の奥まで向かう父は、頭を隠すようになった。
父は屋敷の増築を任され、私は教養を身に付けるために閉ざされた座敷で勉学に励んだ。父とは、めったに会うことが適わぬようになった。
代わりに、巫女様のお世話を任された鎮女という年下の少女が私の話し相手だった。稀に当主様や刻ミ女の方も見た。当主様は初めて見るはずなのに、何故だがとても懐かしく感じた。

久世のお屋敷での生活は、とても静かで穏やかだった。参拝者の方のすすり泣きが何故か恐ろしく感じることもあったが、それを除けば私は幸せだったのかもしれない。父にもたまに会えた。相変わらず顔は面の下だったが、会って話ができればそれで良かった。
それから鎮女も巫女様も何代か代を重ね、新しい巫女様がやってきた。身寄りのない女性を、当主様が引き取ったらしい。当主様には実の娘がいらっしゃったが、巫女は久世の名を受けたその方がやるそうだ。

新しい巫女様と、新しい鎮女。巫女様は綺麗な方だ。あの方の肌に、これからどんどん痛みが刻まれていく。そう思うと恐くなった。鎮女の最年少の子も、なんだか恐かった。
よく考えたら、私はその儀式の内容を詳しくは知らない。中途半端な知識しか持たなかったために、幼稚な好奇心が詰まらない行動を起こした。
鎮女のひとりに、儀式の内容を聞いてしまったのだ。そして絶句した。彼女もまた、それに罪悪を覚えていると、小さな声で詫びるように言った。

――ただの人殺しだ。

刺青を刻み、最後には四肢を杭で穿つ。巫女が未練を残すようであれば皮を剥ぐ。
久世の屋敷が、おぞましいもののように思えた。逃げ出したくてたまらない。ここは怖い。怖い。

「……とう、さま」

逃げなければダメだ。父に会いたい。味方が分からない。ここは怖い。

逃げれば、良かったのに。

お屋敷に異変が訪れた。地の底から唸り声のようなものが響き渡り、屋敷の中の空気が変わった。じとりと湿った重い空気が肺腑に張り付く。寒くもないのに体が震える。戦慄した。
当主様が、鎮女が、刻ミ女が、「破戒」が起きたと。
私はわけもわからぬまま、ただ慌ただしくなった屋敷の中に戸惑っていた。

ひとり部屋に閉じこもり、ただ時間が過ぎるのを待つ。静かだった屋敷が騒がしくなったのはいつからだろう。何の前触れもなく、悲鳴が響き渡った。男性の叫び声だ。次いでバタバタと廊下を駆ける音が鳴る。けたたましい物音。そしてまた悲鳴。その繰り返し。
きっと、外にいるモノに見つかったら殺されるのだ。確信があった。だから身を縮め、息を殺し、じっと動かなかった。見つかったら殺される。外に出られない。死ぬ。殺される。怖い。怖い。

――ああ、父は、どうしているだろう。
恐怖に満ちた片鱗にそんなことが頭を過ぎる。

無事だろうか。もう外に逃げ出してしまっただろうか。迎えには来てくれないのだろうか。

ギュッと体を抱き締める。同時に、戸が開いた。悲鳴が喉を突く。呼吸が不自然になる。体の内側を鉢で叩きつけられているような錯覚に襲われた。
戸の前に立つ影は逆光で貌が見えない。ゆっくりと、引きずるような緩慢な動作でやってくる影に私は畳の上を這って逃げた。もっとも、それすら狭い部屋の中では意味をなさない。影は目の前にやってくる。喘ぐように浅い呼吸を繰り返しながら、私は身を縮めた。

「無事、だったか……」
「!」
「『柊』も……負ってはおらぬか」
「父、様」

懐かしい声に、視界が熱を持って滲んだ。助けにきてくれた。そう思った。父は私の頭をあの時のように撫でる。顔は仮面の下に隠れてしまっているが、きっと微笑んでくれているのだろう。父の腕に縋り、恐かったと涙を流す。何一つ変わらない手のひらが頭を撫でる。ただ、鼻孔にねっとりと纏わりつく血の濃厚な匂いに、私は思わず息を止めた。

「父様、怪我を」
「……大丈夫だ」
「でも、早く外に。お医者様に診てもらわないと」
「ああ、外に、出よう」

父は私の前を歩き始める。私は慌てて立ち上がり、そのあとを追った。部屋を出て、長い廊下を歩く。屋敷の中は真っ暗だった。ところどころについている灯籠が唯一の灯りだ。しかし灯籠に照らされている場所は、みな床に何かをぶちまけたようなシミがあった。前を歩く父の着物にも、シミがある。やはり怪我をしているのだろう。

「父様」
「何だ」
「玄関は、あっち」
「いや……」
「?」
「……箱庭に、大切なものがある」

低く告げた父に不安になる。箱庭は屋敷の奥の方だ。そこまで行ってしまったら。嫌な想像に背骨に怖気が絡み付いた。必死にそれを振り払おうと、他愛のない言葉を羅列する。

「父様、私、字の読み書きがたくさんできるようになった」
「そうか」
「だから、たくさん勉強する」
「……どこに出しても恥じない娘になったな」
「まだお嫁さんにはならないよ」
「お前の母は婚礼を上げたがらなかった。だからお前には白無垢を用意したい」
「そしたら写真、写真を、記念に」
「ああ」

父が戸を開ける。その向こう側に箱庭が広がっていた。雪が、降っている。雪が青白く景色を照らしていた。明るくなった視界に、息を飲む。

「父、様?」

父の、右手が真っ赤に染まっていた。鉈を握り締め、着物を汚し、赤く浮かび上がる姿に瞠目する。
何も考えられなかった。
父は私に向かって鉈を振り上げる。それを呆然と眺めながら、父の最後の言葉を聞いた。

「すまない、すまない……」

父の面の隙間から、透明な雫が流れている。私は肩から腹にかけての肉が切断され、絶命していくのを感じながら、意識を暗闇に落とした。






20110725

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ