紫電清霜
□05. 真友
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いつからだったか。
自分の名前を呼ばれることを、苦しく思うようになったのは。
「やーい、お頭の息子!」
「いやいや、息子じゃなくてお嬢さんだろー?」
「ちがう!俺は男だ!」
「えー?だって名前が凛っていんだぜ!女みたいな名前だよな!」
「凛ちゃーん!」
「ふざっけんな!これは俺の母さんがつけてくれた大切な名だ!ばかにするな……!」
「凛ちゃーん!」
「きゃーかわいいー!」
誰も信じたくなくなったのは。
世界が、すべてが、敵みたいに思えて苦しかった。
「凛……また喧嘩したの?」
「母さん……」
「こんなに汚れて……。あんまり危ないことはしないでね」
「……、心配しすぎだよ。遊んでただけだから」
生まれて初めて親からもらった贈り物が、馬鹿にされる理由だなんて、絶対に言いたくなかった。
悲しませたくない。この名を付けたことを後悔させたくない。俺のことで母さんを苦しませたくない。
「そうなの?爛も里を出てから手紙も来ないし……。母さん心配しちゃって」
母さんが俺に干渉しすぎることなんてなかった。だけど、心配をたくさんかけたのはわかる。
当時も、今でも、温かくて、強くて、優しい母だと思う。いつも俺の背中を押してくれていた。
大切だからこそ、言いたくないことがある。
大切だからこそ、頼りたくないことがある。
ぐるぐると頭を悩ませる、里の仲間との関係。
相手はふざけているだけで、子供ながらのからかいだとわかったのも年を重ねてからで、当時の俺は誰にも言えない、苦しい事柄ばかりだった。
現頭領の息子。
その息子として優遇されたことも多々あったけれど、当時は兄の爛が旅から戻ったら次期頭領になると噂されていたので、俺に向けられる好意など殆どなかった。
次期頭領になるのは俺だと決まった今となっては、俺をからかっていた奴らとも関係は悪くないし、きちんと謝罪もしてもらったこともある。
気にしても無駄だ。本当に謝りたかったのか、それとも俺が頭領になると決まったから謝ったのか。
後者だとしても俺は相手をボコボコにした過去を持っているのでおあいこだ。
それに……
「“凛”って素敵です。真っ直ぐで美しい感じがします」
この数年後に出会った存在は、聞き及ぶ“あの”狐だった。
なのに、天狗である俺を認めてくれた。
迷った時、苦しい選択をする時、悲しい別離を受け入れる時。
俺は心の中で問いかける。
『 俺は今、この名に相応しい生き様を示せているか 』
と。
真っ直ぐに、正しく。
美しいと誰かが言ってくれるような……。
茜凪に出会わなければ、俺は俺を愛することができなかった。
人を傷つけるだけの、暴力的な男になって、そのまま里を導く存在になっていたかもしれない。
恋慕ではない。
ただ、あの日の茜凪がいなければ俺は救われなかった。一歩を踏み出すことができなかった。
あいつは俺がそんなことを感じているなんて、考えたことないだろうけど。
そんな茜凪に幸せになってほしいのは、俺の願いだ。
そのために、必要な一歩ならば。
覚悟を決めなければならない。
いつからか、呼ばれることが苦しかった名前は、俺の道標になった。
敵ばかりに見えた世界に光として現れたのは、嫌悪の対象として一族に伝わっていた妖だった。
「―――……茜凪」
脳裏にふつふつと蘇った、子供の頃の思い出。
茜凪の幼い顔が浮かぶ。
ずっと一緒だった。
失いたくない相手だった。
初めてできた友達。
そいつと今日、俺は命を懸けて……
「俺はお前に嘘をついた」
第五華
真友
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