紫電清霜
□07. 心友
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―――心が侵食されていく感覚が分かる。
真っ白な半紙の上に墨汁を一滴落として、そこからじわじわと黒が広がり、白を侵す。
時間が経てば侵食が止まると思いきや、勢いは増すばかり。
どんどん白を黒に変えて、半紙の隅から隅まで闇にしていく。
やがて半紙は真っ黒になり、液体によって溶かされる。溶かされた箇所から立体的にグググ……と意志を持った化け物が起き上がってくるんだ。
『辛いのか?』
『ならば全て壊せばいい。心のままに』
そう化け物は私に問いかけた後、答えを与えるのだ。
『憎くて憎くて仕方ないのだろう』
『許せなくて仕方ないのだろう』
『それはそうだ。大切な者を失い、愛する者と引き離され、信じていた友から裏切られた』
『生きていることが辛いだろう? ならもう理性を保ち、生きることをやめたらどうだ』
黒い化け物はやがて蛇の形になり、舌を出しながら闇の中へ心を引きずり込もうとする。
「(つらい……。生きていることが)」
ぽつり、と本音が漏れた。
一度零れた思いは、どんどん手のひらから落ちるように雫となって黒に混ざる。
「(藍人を失った時、いいえ……それ以上に小鞠を失ったことがつらい……)」
それは、守れなかった自分を許せない。
「(烏丸に嘘をつかれたこともつらい……)」
それは、嘘をつかせた自分への信頼のなさが許せない。
「(はじめくんと離れることが……こんなに苦しいなんて、思わなかった)」
あいしている。という感覚がわからない。
難しい、と思う。
どんな状態を愛だというのか。
だけど、傍を離れ戦いに挑む彼が、どんな状態に身を置いているのか。
不安でたまらない。
もし、妖の羅刹に殺されたら。
もし、彼が羅刹化したら。
もし、彼が命を落としたら……―――。
なにもなければ。烏丸からの依頼がなければ、傍にいれたかもしれない環境。
彼を見守ることしかできなかったとしても、彼の最期が知らない場所で訪れたら、私は……。
そう考えれば考えるほど、蛇の化け物は真っ赤に目の前で姿を変えていく。
溶岩に煮られたような赤みを帯びて、熱により風が起きるように私を取り込んでいく。
「これが……」
―――憎しみ。怨み。相手を許せずに、破壊したいという衝動。
蛇の舌に巻き取られ、距離が詰められていく。
私の心が飲み込まれていく。そのまま丸呑みにされるのかもしれないと意外にも冷静な脳が悟っていた。
脳では真っ赤な光景と蛇が面白そうに笑っている姿が見えていた。
なのに、切り替わった視界は烏丸が諦めに似た表情を浮かべていた。
その彼を、友を、胸倉掴んで手繰り寄せ、喉元に刃を突き付けている自分。
私は、烏丸を……殺すのかもしれない。
「(止め……られない……っ)」
本能が暴れている。
指先に籠る力は強くなるばかりでわなわなと震えてしまう。
烏丸の漆のような瞳に、私の瞳が映りこんだ。
妖力が解放され、赤くなっていることがわかる。
バチリ、と脳内で音が響いた。
走馬灯のように感情がごちゃ混ぜになりながら、能力が発動する……―――。
狐の特異な能力により、烏丸の感情や過去の映像が蘇ってきた。
【なら、どうしてそんな顔するんだよ……ッッ!!】
【自分で自分の首絞めて……っ、心に嘘なんかつくんじゃねぇ!】
いつもの、馬鹿だけれど温厚な烏丸からは想像できない激高。
苦しい叫び声を感じる。
一体誰に向かって怒っているのか。こんなに丸出しの感情を向けているのか。
【死なせたくない】
「―――」
次に聞こえ、浮かんだ場面に私は思わず動きを止めた。
震えていた指先は止まり、息を呑む。体は微動だもできずに目を見開いてしまう。
「はじめ……くん……」
【茜凪を……人の戦で死なせたくない。妖として生きる茜凪を、反逆者にも仕立てあげたくもない】
【一……】
【故に、遠ざけてほしい。二度と俺や新選組の前に現れぬよう】
「……―――っ」
聞こえた声、口調。
懐かしさを感じるほど離れていた時間は多くないのに、響く彼の声はひどく恋しかった。
【頼む、烏丸。茜凪を連れて行ってほしい】
―――これは、彼の願いだ。
その願いを託され、烏丸は動いていたのだと理解する。
自然と向けていた切っ先が地面に徐々に向けて下がっていった……―――。
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