紫電清霜

□19. 千与
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懐かしい声がする。



「千与さま、千与さま!」


「あら、赤楝。上手に書けたわね」


「ほんとうですか!?」


「えぇ。これからの時代、字の読み書きはできるに越したことはありません。とても上手ですよ」


「千与さま……、わたくし、千与さまに褒めていただけるととても嬉しいです!」


「ふふふ、やさしい子ね。赤楝」


もう、忘れたいと願った声。
人里へ下るたび、誰にも知られないように探した姿。
愛おしい、あの笑顔。


「赤楝、約束してほしいの」


「はい、なんでしょう?千与さま」


「もし、私と貴方が離れ離れになる日が来てしまっても」


冀われた想いの裏側を知りたい。


「私のことは忘れてくださいね」


「……え?」


「私のことは、誰にも告げてはいけません。名も姿も、そして―――」


―――私が鬼であるということも。





第十九華
千与





苦しい。


喉元に細く長いものが巻きついたような感覚。
どんどん締め付けられるそれに、うめき声が出てしまう。

深い眠りから浮上する意識を、苦しみから解き放てるように赤楝は首を左右に振り続けた。

だが、まだだ。
まだ許さないとでもいうように、赤楝の苦痛は続く。


「千与さま!」


「来てはだめよ、赤楝……!」


「どこへ……っ、どちらへ行かれるのですか……!?」


―――人が。
人間が大勢やってきた。
籠に乗せて、千与さまを連れて行ってしまう。
彼女の複雑そうなお顔。
辛そうでもありながら、どこか望みが果たされるようなお顔が忘れられない。


「千与さま!!」


籠の奥で、男が笑う。
人間の、男が。
千与さまを連れて、触れて、醜く、笑う。
千与さまの表情は見えない。


「千与さま!置いていかないでください!どうか……っ」


振り向いてください。
一人にしないでください。
私は何者なのですか。
千与さまがいなくなられたら、私は一体……


「私も連れていってください……!」


籠が離れていく。
向けられた白刃は、赤楝の喉元に突き付けられ、身動きがとれなくなる。


男の部下が、笑う。


「馬鹿め」


峰打ちで痛めつけられた。
喉が潰れるのではないかと思った。


「千与……さま……」


人間が、笑う。
何度も笑う。
見下しながら、ぼろぼろになる赤楝を笑う。
三日月のような弧を描いて、口元が虐殺を楽しんでいる。
その様は、人でありながらさながら妖と同じだ。


「ち、よ……さ……」


―――赤楝は悟った。
鬼の千与は、人間に攫われたんだ、と。
そして彼女はそれを予測していた。
だから、あのような約束をさせたのだ、と。
誰にも鬼の千与の話はしない。
探してもいけない。
忘れなさい、と。


なにか、子供だった赤楝に言えない事情があるのだと思った。






「―――赤楝!」


「―――っ!」


ぐらり、と肩を揺らされて、赤楝はガッと目を見開いた。
正しくは飛び起きたといえる。


どうやら道場の縁側で柱に寄り掛かり、うたた寝をしていたらしい。
魘されていた赤楝を思い、呼び起こしてくれたのは旭だった。


「……、旭」


「ちょっと大丈夫?魘されてたぞ」


藍色の目に、黒い艶のある髪。
長い睫毛と、戦装束になってもすらりと伸びる手足は美しい。
―――旭も、大人になっていた。

巷では婚期真っ盛りのはずなのだが、どうも男勝りな彼女は興味がないらしい。
未だに武術に明け暮れて、赤楝や爛、環那や綴と共に道場に出入りをしていた。


「すまない。手間をかけさせた」


「いいけど」


ぶっきらぼうに会話が終わる。
相変わらずだと思いながら、旭を見上げる赤楝。
気になっていたことを告げた。


「綴と爛は?」


「綴は里に戻ってる。妖界の小競り合いについて情報集めるってさ。爛はたぶん遅刻」


「そっか。じゃあ今日は私と旭だけだね」


「環那は?」


「環那も一度、里に戻ると聞いたよ」


この頃の彼らは、道場に出入りをし切磋琢磨すると言っても昔と少々役目が変わって来ていた。
環那はもちろん、爛や綴、旭たちも妖界では指折りの強者として名を連ねていた。
里に召集されることもあれば、小競り合いを治めるために駆り出されることもある。
全員で必ず集まっていたあの頃は、もう久しく訪れていない。


「なんだ、環那いないのかよ」


ぼそっと顔を逸らした旭はつまらなさそうにしている。
彼女が婚期を気にしていないのは、心に想っている相手がいるからなのかもしれない。


「残念だったね、旭」


「べつに」


「数日で戻ってくると思うよ。戻って来たらまた会いにくればいい」


「環那が目当てでここに来てるわけじゃないっての!修行だ、修行」


人の恋路に口を出したからか、旭が赤楝を睨みあげた。
赤楝は笑って誤魔化したが、次に飛んできた仕返しは誤魔化すことができなかった。


「赤楝こそ、千与様って誰だよ」


「―――」



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