短編集 「月の詩」
□居待ち月
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居待ち月
明日、発つつもりだと言うと、あからさまに不機嫌になった。だから、言うのを躊躇っていた。・・言わずに黙って去るのも無礼だと思い直し、ようやく口にしたのだった。
「ピカ・・お前・・」
ここに居ろと言われると思った。そして、それを遮るかのように私は庵の外へ出た。
「水を・・」
「ああ」
ヨ−クシンからの帰路、回り道をしただけのことだ。
(生きろ、ひとりじゃない)
これに対する、返事のようなものだ。高額で取引された緋の眼は、複製だった。あの時、確かに私の両手の中にあったのに・・。文字通り、すり抜けていったのだった。では、本体は何処に有る?複製には、何らかの仕掛けが施されてはいなかったか?もしかして、師匠ならば、私が気が付かぬ間に掛けられた何かに気が付くのではないか?センリツには、適当に理由をつけてライト氏に伝えてもらっている。私が戻るのが遅くなれば成る程、センリツに迷惑をかける。師匠が、どう引き留めようが、やらなけれはならない事を、放るわけにはいくまい。
源泉から静かに湧き出でる水は、やがて小さな流れを作り下流へと流れ出す。ちいさな小川は、途中で他の流れと合流し、やがては大きな流れとなる。それは決して留まることは無い。滝や池、湖、途中には自分の不本意ながら、時には地下に潜り人工的に固められたコンクリ−トの枠に沿って進まなければならないこともあるだろう。だが、それもいつかは大海に出る。
私は、既に一つの小さな流れとなった。
留まれば、心を病み、腐ってしまうだろう。
うまく説明できるだけの、語彙が、欠けている。ならば、いっそ、何も言わずにいようか・・。水面をにらみつけていると、背後から知った気配がした。ギリギリまで気が付かないフリをする。
私は、見てしまったのだ。
同じく、水面に映った師匠の、泣きそうな顔を。
(ここに居ろ)
声に出さない言葉が、聞こえてしまった。
発すれば、私が困るということを解って、言えないで居るのだ。そして、不自然な態度に表れる。不器用なヒトなのかも知れない。それはお互い様だが。
「二人っきりの時は、素直に成ったらどうだ?」
「その言葉を、そっくり貴様に返してやる!」
師匠は、私に触れようとし、すぐさまその手は空を切った。
逃げ場を失った私は、滝壺めがけて身を投げたのだ。
いや、正しくは、後ろに跳び退いたところに地面が無かったのだ。
背面から落下する。刹那、遠ざかる漆黒の瞳を見た。師匠の叫びが聞こえた。不思議と、これで終わりとは思わなかった。
私は精一杯、甘えているのだ。貴様の円の中ならば、何をしても助かるのだと・・。
「危ねぇ事をしやがる!そんなに死に急ぐな!」
何をどうやったら、私を助けられたのか?不思議だ。その念の仕組みを知りたいと少し思った。ぶつぶつと文句とも独り言ともとれる言葉を話すのを、私は背中で聞く。思ってもみない優しい言葉に、目の奥が熱くなった。振り返るタイミングを逃したまま、気が付かずに寝たフリをした。
どれぐらい時間が経っただろう?師匠と目が会った。
「今、何時だ?」
「お前なぁ、気が付いて最初に言う台詞が、それか?」
投げやりな言葉と裏腹に、瞳は揺れていた。
「たまには連絡をする。これでどうだろう?」
「ああ。危ない時は、呼べ。いいな?」
今度は、目を逸らさずに、ゆっくりとひとつ、瞬きをした。
金木犀の花が咲きだした。
「俺の一番キライな季節だ」
訳は聞かないでやった。
-- 了 --
※ 居待ち月(いまちづき) 十八夜のことです。
金木犀が香る
ただでさえ ひと肌恋しいこの時期に
雄猫は 出ていくと言う
懐いたと思ったのは
俺の 思い上がりか?
手を伸ばせば届く距離
ひらり
跳びやがった
ばかな
堕ちながら 眼が言った
「捕まえろ!」
そこは
「助けてくれ!」 だろうがっ
コイツの構い方が 少しわかった
金木犀が香る秋
俺はまた 独りになる