いつものわかつでの食事の後、荒垣さんはちょっと寄ってもいいか、と私を誘った。ポートアイランドまで出るけど、と言った荒垣さんは詳しく行き場所を告げない。料理しようにも、あの寮、調味料すらまともにねぇからな、と話しながら荒垣さんが連れてきたのは、車のヘッドライトがずっと流れていくその先で真っ白な瑞々しい光を放って佇んでいる巨大なスーパーマーケットだった。







このポートアイランドでいちばんでかいスーパーだから覚えとけ、と荒垣さんは言って、手慣れた手順でカートを引っ張る。夜のほの暗い明るさに慣れた目は、スーパーマーケットの天井にある食材を隅々まで照らそうとする蛍光灯の光に眩しさを感じていた。



「どうせ、おまえらコンビニとかでしか買い物しないだろ」

「こんな大きなスーパー初めて見ました」



荒垣さんは迷わずカートを引っ張って探し物の棚へと進んでいく。もう夜も遅く閉店間近だからか人の流れは閑散としていた。最初の野菜と果物の売り場を見向きもしないで荒垣さんは進んだ。私は膨大なる食材と棚に挟まれながら迷わないように荒垣さんに必死についていきながら、目についたクレソンの細い束のしなやかさに恍惚としてしまう。

荒垣さんが辿り着いたのは調味料の棚だった。棚の上から下まで醤油、みりん、ラー油、香辛料と様々な調味料を抱え込む棚の懐の深さに私は唖然としてしまった。荒垣さんは戸惑うことなく、下段の醤油に手を伸ばし、濃口と薄口のラベルを比べるように見つめる。



「なぁ、寮の棚にあった醤油、濃口と薄口どっちだったか覚えてるか」

「・・・どっち、だったでしょうか」



この間、順平がカップ麺の味付けを変えるのに入れて、濃すぎた、と騒いでいたから濃口だろうか。なんて言ったら荒垣さんに溜め息をつかれそうだ。もう既につかれているけれど。溜め息とともに、両方買っとくか、損するもんでもねぇし、と荒垣さんは篭に入れる。



「あー、オリーブオイルなんてものは」

「もちろんないですね」



最後まで言われなくてもわかる。だよな、と言って荒垣さんは棚の端から端まで見渡して、ここにはねぇか、と呟いた。後で探すことにしたのか、今度は香辛料の段を見ている。確か、天田くんの食生活を嘆いてカレーでも作ってやるか、とぼそりと言っていたのでそれの下準備かもしれない。

荒垣さんは手慣れた手つきで、いろいろな種類の香辛料のラベルを見て、光に透かして色を確かめ、いくつかを篭に入れた。私はその一連の動作を眺めるだけで、時折調味料を探しに訪れる他のお客さんのために道を譲ることしかできなかった。



「荒垣さんと結婚する女性は大変ですね」

「何言い出すんだ、突然」

「だって、こんなにも料理上手なひと、きっと何作ったらいいのか、困っちゃうじゃないですか」



それとも、いつも荒垣さんの手料理を食べれるから逆に幸せなんでしょうか。

そう言った私に荒垣さんはひどく苦々しそうな表情を作って、俺は結婚しねぇ、とぽつりと言った。



「でも、いつかは、」

「しない」

「わからないじゃないですか」

「しないっていってるだろ」



その言い方に私はそれ以上荒垣さんに声をかけることができなくなってしまった。いつもなら笑い話になる話題のはずだった。荒垣さんの声は別に誰もが振り向くような音量じゃない。でもいつも私に向けられる声よりも数段厳しくて私は思わず、「私、別の棚、見てきます」と言ってしまった。荒垣さんは調味料の棚から目を動かさず、返事をしなかった。











勢いで離れたものの、インスタント食品と缶詰とベビーフードで囲まれた十字路で私はどうすればいいのかわからなくなった。後ろからきゅるきゅるとカートのコマを滑らせてやってくる主婦に押されるように私は缶詰の通路に押しやられる。

パイン、桜桃、みかん、さくらんぼ、それからツナや白身魚やレバー・・・あらゆる種類の缶詰が並べられた棚が聳え立つ通路の真ん中で私はまるでこの缶詰たちに閉塞されて窒息してしまう息苦しさだった。

(私、いまはじめてかなしいと思ってる)

荒垣さんから拒絶されるような言葉を言われたのはこの短い付き合いの中でも初めてのことだった。荒垣さんは怖そうだけれど、乱暴なことはしない、繊細な人だということを私は短い付き合いの中で見抜いていたはずだった。

(私は拒絶されないなんて、傲慢だっただろうか)

つんと鼻に染みるように涙が出てきて、思わず私はしゃがみ込んだ。缶詰が並ぶ棚の下段には宝石のように色とりどりのジャムが並んでいて、涙で滲んだ視界に宝石箱の中身のようなジャムたちは虹色の世界を作る。苺に巨峰に杏に林檎にアプリコットにラズベリー・・・特に瓶の中で漂うブルーベリーの小さな実は本当に深いアメジストのようで、その宝石たちの強さは、あらゆる果物を煮詰めて瓶に詰めた食材たちの半永久的な強さだった。スーパーマーケットの眩しい蛍光灯の下でその世界はプリズムのような美しさで私はじっと涙を零すことができず瞳にためながら、綺麗だなぁと思うことしかできなかった。

きゅるきゅるとまたカートのコマが近づく音がして、私はこんな所にしゃがみ込んでいてはまた他の人の邪魔になると思い立ち上がろうとする。



「逃げんな」



探しただろ、と飽きれたように私に投げられたその声は荒垣さんのものだった。さっきとは違う、いつもの優しいトーンの声で私は思わずプリズムの世界を壊して、涙を零しそうになる。私は自分の細い腕でなんとかさっと涙を拭って立ち上がって荒垣さんに背中を向けたまま、ごめんなさい、と言った。ジャムが、すごい綺麗だったから、思わず見入っちゃって、となるべくいつものトーンで振る舞おうと声を出したところで震えていて、私はそれ以上しゃべることができなくなった。

そんな顔すんな、と荒垣さんが言うから、私は涙を拭ったところでひどい顔をしていたのだと思う。

私の手を無言で引っ張って、レジへと荒垣さんは進む。調味料だけが入ったカートを見て、さっき話していたオリーブオイルがないことに私は気づく。(きっと私を心配して、さっき見ていた調味料の棚しか見れなかったんだ)と私は思う。申し訳ないと思った。あんなことで取り乱したりして。私と荒垣さんは、恋人でもなんでもなくて、知り合ったばかりの、後輩と、先輩だ。

会計中、無表情にバーコードを読み込む電子音が私の心を冷静にさせる。淡々と店員さんが篭から篭へ調味料を移していく。空っぽな篭に調味料が転がる度私は心の中で思う。

(どうして私はあんなにも動揺したんだろう)、(少し声を荒げられただけで)、(そんなの怖いなんて思ったこともないのに)、(本当はもっと買い物だってしたかっただろうに)、(どうしてそれを放ってまで私を捜しにきてくれたんだろう)、(心配してくれた?)最後にバルサミコの瓶が転がったとき、私の心も転がった。(オリーブオイルだって買い忘れるくらい私のことを心配してくれた不器用なこの人のことが、すきなんだ、だから私は傷ついたんだ)

気づくととてもシンプルなものだった。たくさんの調味料で複雑な味を作るソースよりも余程明瞭なものだった。

新しい篭に移された幾つかの調味料を店員から渡されたビニール袋に移しながら荒垣さんは口を開いた。



「さっきは悪かった」



くだらないことで声を荒げちまって、嫌な思いしただろ、と荒垣さんは言った。私こそ、くだらない話引っ張っちゃって、嫌な思いしましたよね、ごめんなさい。と私は言った。結婚する、しないなんて私たちには早すぎる話ですよね、とさっきの話題を軽減させるつもりで言った私の言葉に、荒垣さんの手が止まったのを見て私はまた自分が余計なことを言ってしまったのかもしれない、と臆病になる。



「結婚、」

「え?」

「結婚、したくねぇわけじゃねぇよ」



荒垣さんがまた動きを再開して、開いた口から出てきた言葉に私は戸惑う。さっき、その話で嫌な空気になってしまったものだから、私は変にこの話を引っ張りたくなかった。でも荒垣さんは話をやめなかったので私は神妙な顔で聞くしかなかった。



「ただ物理的に俺のこれからの時間にそんなことは起こるはずねぇってわかってる。だからさっきしない、って言った」



理由はいえねぇけど、できねぇし、それに俺のこと好きなんて言う奇特な奴がいると思えねぇ、と荒垣さんは言う。私は出会ったときからどうしてか全てを諦観しているこの人のことが不思議だった。荒垣さんが諦めていないのは真田先輩のことと天田くんのことぐらいなのではないか、と思うことがある。誰とでも距離を置きたがる荒垣さんが、天田くんの食生活を心配したり、真田先輩の戦いの仕方を心配したりする。この人が諦めているのは真田先輩と天田くんのこと以外の全てだ。



「ほら、帰るぞ」



調味料がぶつかりあって揺れる袋をぶら下げて、私を誘う荒垣さんの声は優しい。こんなにも優しい人がどうして未来を展望することができないんだろう。

私は荒垣さんが何一つ変ってほしいとはおもわなかったけれど、これだけは別物だった。この人の口からいつか、と言う言葉が出た日には私は狂喜乱舞してしまうに違いない。どんな些細なことでもいいから、それを言わせたかった。

荒垣さんに連れられて私はスーパーマーケットの自動ドアをくぐる。夜のスーパーマーケットは照明が鮮やかだと言うこと、こんなにも瑞々しいもので溢れているのだと言うこと。それはスーパーマーケットに陳列する、野菜の、例えば赤いお尻を見せて並ぶトマトや蛍光灯に照らされたレタスの若々しい緑がそうさせているのか、それとも私のこの荒垣さんへの気づいたばかりの恋心のせいでそうさせているのかはわからなかった。ただ、この月も見えない夜の中でポートアイランドにたったひとつだけあるこの巨大なスーパーマーケットは今日も照明を鮮やかに、瑞々しく佇んでいる。

車のヘッドライトが私たちの隣を行き交う中、聞き取れるかわからないくらいの小さな声で荒垣さんが呟く。オリーブオイル、買い忘れたな。私はとっくに知っていた。知っていたけど、言わなかった。じゃあ、今度の買い物もお供しますね、と私は少しだけ先を行く荒垣さんの背中に言った。





フローズン・タイム







































































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