荒垣さんの体温を的確に表現するとしたら「温い」が一番妥当だと思う。暖かいとか冷たいとかではなく、温い。例えば、もう温まっているかと思って、お湯を張った浴槽に足を突っ込んだときのそこに溜まったひんやりとした温度にぞくりとする、そして暖かいものと冷たいものが混ざり合って温くなった温度に鳥肌を立ててしまう、あの感じに似ている。

どうして今そんなことを思ったのか。湯船に張った温度は温くもなくつめたくもなく心地よい温度を保っている。居心地のよい温度で保たれた浴槽は適度な眠りを誘うほどだ。



(心地よい温度は眠たくなる。けど、荒垣さんと一緒にいるときは眠たいよりもぞわぞわする)



そんなことを迫りくる眠りの淵で思う。お風呂場で寝ちゃ駄目よ、と昔母に怒られたことを思い出した。結局、その癖はなおらない。別に私は生活の中で浴槽で眠ってしまうことが悪いことだなんてちっとも思わない。たしか浴室で一生を暮らし続けようとする男の小説があったじゃないか。そう、浴槽の狭さもきっと私に快適な眠りを与える一つの要素だと考える。今、私にとって一番駄目なのは、浴槽の睡眠の居心地のよさよりも荒垣さんと一緒にいるぞわぞわとした震えのようなものが快感になっていることだ。一番居心地のいい温度よりも、不安定なのにずっと触れていてほしくなるあの中途半端な温度に包まれていたいと、荒垣さんに触れるたびに思う。荒垣さんが自分から決して触れてこないのも、こういった欲求不満に似た感情に結びつく原因だな、と思う。















意識は少しここで途切れる。

本当に眠ってしまった私は、寒さで目が覚める。浴槽で眠るといつも、お湯の温度が冷めた温さで目覚めてしまう。そしてその温さに荒垣さんを思い出してしまう自分を叱咤する。こんな女だって知れたら荒垣さんは嫌な顔きっとする。

意識が覚醒してきて、あれ、と私は思った。

浴室が真っ暗だ。窓から差し込む月の光、夜が暗闇ではなく緑色をしていることに気づき、私は今が影時間だと言うことに気づく。浴槽の水が気持ち悪い赤色になっている。どうやら私は影時間に入るまで浴槽で眠ってしまっていたらしい。

冷えた体で浴室を出る。肩からは弱い湯気が出ていた。突然の温度の変化に私は肩を震わせる。なんとか視界に見えたバスタオルだけを身にまとって私は寮へと戻ることにした。水滴を拭ききれていない体は時々ぽたりぽたりと床に水滴を落とした。その瞬間、影時間の影響で水は血のような赤に変わる。まるで私の体から血が流れているみたいだ、と思った瞬間、背筋がぞくりとして私は戦いた。今まで思ったこともない、影時間に恐れを感じて私は慌ててドアを開ける。寮とお風呂場は別棟の関係にある。サンダルを履いて私は裏口へと向かった。お風呂は私が最後のはずだったから、みんな寝ているはずだ。



「篠崎?」



扉を開けた瞬間、声がかかった。荒垣さんだ。

怖い、と思っていた心が、瞬間ほっと安堵の息をつく。

荒垣さんはお前、なんて格好しているんだ、と呆れ気味だった。私ははっとする。いくら怖くなったとはいえ、誰もいないと思っていたとはいえ、女の子がバスタオル一枚でラウンジに出るなんて。また怒られてしまう、と思った私の唇は寒さに震えながら言い訳を考える。だって、真っ暗で、何も見えなくて、寒くて。



「お前、これじゃぁ湯冷めするだろ」

「荒垣さん、さむいです」

「・・・また風呂で寝てただろ」

「暖めてほしいです」

「・・・馬鹿言え」



とりあえず服をとってこいよ、と飽きれた声で言われる。でも私は嫌だった。影時間になって赤く染まったお湯も血のような液体が流れる浴室も自分の体から落ちる血のような水滴も気持ち悪かった。あんなところでのうのうと眠っていたのが信じられないくらい。

お前が行かないなら俺が行く、と溜め息まじりでそういって荒垣さんは裏口から浴室へ向かおうとする。

私はどうしても、服じゃなくて今は荒垣さんの温い体温に触れていたかった。思わず去ろうとする荒垣さんの背中に私はもたれるように触れた。



「何を、」

「・・・暖かい」

「・・・お前の体が冷えてるからだろ」



さっきの冷えてしまった浴槽の温度よりも、思い切って触れた荒垣さんの温度はずっと暖かかった。私の温度が少し上がる。この、人肌にわずかに残る温もりをなんと表現すればいいんだろう。適切な温度が私の中で見つからない。

体に当てた水銀体温計に残った体温。あっという間に冷たい銀色の温度に戻ってしまうあの微かな温もり。そんな温度を私は思い描く。あっという間に冷めてしまうその温度を逃したくなくて、私は荒垣さんのコートにしがみつく力を強くする。私が欲していた温度はこれなのだと確信する。

荒垣さんは動かなかった。私は動けないまま、その温度にとらわれている。時々濡れた髪からぽたり、ぽたりと落下する水滴が私の肩を濡らして、現実に引き戻してくれる。暗闇で、私はタオル一枚で、好きな男の人の背中にしがみついて、彼はそんな私に触れもしてくれない、何を、私はしているんだろう。

長い時間、そうしていたのだと思う。いつの間にか寮の窓から見える夜の光がただの月明かりに戻っていた。気味が悪いほどの沈黙もない。



「影時間、すぎたみたいですね」

「・・・そうみたいだな」

「電気、つかない」



荒垣さんは私を背中に引っ付けたままキッチンの電気のスイッチに手を伸ばす。灯りはつかない。電球切れたみたいだな、と荒垣さんが呟く。

暗闇の中で私はずっと荒垣さんの背中にくっついたまま、いつ離れたらいいのかわからない。温いお湯のような体温の背中に私の背中はぞわぞわとしている。わたしの頭の中にあるイメージの水銀体温計はずっと同じ温度を保っている。私がその熱を逃さないように握りしめているから。ふたつの温度に挟まれた水銀は昇ればいいのかためらっている。わたしの体もためらっている。私は水銀温度計みたいに、この人と同じ温度になれてしまえたらいいのに、と思う。たとえそれが一瞬の話でも、いつかは冷めてしまう熱でもこの人と何かを共有することができたらいっそう、幸せなのに。

熱くも寒くもない肩に荒垣さんはそっと触れた。初めて彼から触れてくれた瞬間だった。その指先の温度は冷えてしまったわたしに、自分から触れるのとはまた違う感覚を与える。いつもよりずっと暖かくて溶けてしまいそうになる。そんな私の肩を掌で包んでしまった荒垣さんは短く、「こんなにも冷たいんだから、早く服を着ろ」とだけ言った。





水銀体温計。





















































































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