短編集

□君と僕の幸福論
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 この身ひとつあればいい。余計な感情などを抱くから人という生き物は弱いのだ。だが、どうやらこれはあくまで個人的な見解にしかあたらないらしく、一般論とは程遠いようだった。
 世の中に不可能なことなど何もない。私の内の奥底に植えつけられ広範囲に渡り根を張ったそれ。しかし、時が経つにつれていつしか私は矛盾に気づいた。否、それは矛盾ではなく、もっと根本的な部分から否定しなければならなかったのかもしれない。それが『間違い』だったと気づかされるのに、さほど時間はかからなかった。

 耐えきれない夜が続く。悪夢に魘され真夜中に目が覚めることも少なくなかった。あの時感じた『間違い』は、いつしか『罪』の意識に変わっていた。許されたいと心のどこかで思いながらも、許しを請う相手はもうこの世界にはとっくにいない。そう、いなかったのだ。


 いつからだったか、なんの為だったか仮面のように貼り付けたのは笑顔。表面的な偽りは勿論のこと、嘘や誤魔化しも上手くなった。それとは裏腹に心の芯は変わらずに強くならないままだ。

 私はまだ生きていた。 命の値段や価値なんかを測りながら生きていた。





「お誕生日おめでとうございます、ジェイドさん」


 綺麗に笑った少女の言葉で、長い夢から目が覚めたような気分になった。
 私はまだ生きている。今日でまたひとつ歳を重ねて当たり前のようにここで生きていた。
 
 「ありがとうございます」といつもの調子で返せば、なぜか少女は困ったように笑った。笑ったり怒ったり泣いたり、くるくるとよく変わるその表情はなんとも人間らしいもので、自分とは正反対のそれだ。感情なんて不要なものだと考えていた私が、自分の感情に素直に生きる彼女の姿を『人間らしい』と評価するのはどうかしていると自分でも思う。それは、彼女の存在を異質なものに感じるのか、はたまた自分の存在が人間とはかけ離れているとでも言いたいのか。


「今日はジェイドさんのお誕生日なんですよ?その主役がそんな顔してどうするんですかっ!」
「そんな顔、とは……?」
「惚けてもダメですからね!私に隠し事は通用しないんです」


 彼女が堂々と胸を張ってそう言える根拠は、彼女が異世界から来た人間であるということ。俄かには信じ難い話だが、彼女の世界ではこの世界に起こることはひとつの物語として描かれているらしい。我々の過去やこれから起こること−−つまり未来まで知っているというのが何よりの証拠だった。


「どうせ『私なんか生まれて来なければよかった』とか『過去の自分を殺したい』とか『どうしてネビリム先生が死んで私が生きているんだろう』とか!またそういう卑屈なこと考えてるんでしょう!」
「………」
「無言は肯定と受け取りますからね。いいですか!誕生日っていうのは『生まれて来てくれてありがとう』って意味を込めてお祝いするんですよ!その他でもない主役がそんなことでどうするんですか!」
「……すみません」


 ぽつり、と口から漏れた謝罪。つまるところ私は彼女の一生懸命さに負けたのだろう。いつだって全力で、何事にも必死で、馬鹿みたいにお人よしで……だからこそ彼女に惹かれる者は少なくない。いつの間にか自分もその中の一人に加わっていたなど、どこぞの皇帝陛下に言われるまでは全くの無自覚であった。


「謝ってほしいわけじゃないんです。ただ……もっと自分のことを大切にしてほしいなって思って……。この世界には、ジェイドさんのこと大好きな人たちがたくさんいるっていうことを忘れないでください」


 涙ぐみながら、彼女は懸命に言葉を紡いだ。優しい言葉の雨が降り注ぐ。きっとこの雨は私にしか見えていない。私の上にしか降らない。その酷く優しい雨と共に、全ての柵(しがらみ)も流れ去ってしまえばいい。
 無意識の内に全てを遠ざけようとしていた。しかし、手を差し伸べられたらそれを振りほどくことはできない、ときた。我ながらおかしな話だ。ああ、可笑しい。どうやら私は酷く混乱しているようだ。否そうに違いない。片付けを要求しようとした頭の上に、これほど容易く日は昇る。


「私は……私は、ジェイドさんの過去を知っています。それがどれほど辛いものなのかも……だから、どうしてそんな顔してるのかも、何を考えてるのかだって大体わかっちゃうんです。……でも、それで仕方って納得するほど馬鹿じゃないですよ、私」


 オールドラントでは珍しい黒い瞳。さっきまで滲んでいたそれは、いつの間にか強い意思を刻み付けて私に向けられていた。


「消したいほど辛い過去や、数え切れない過ちも誰にだってあると思います。でも、それは全部私たちが生きている証なんです。ジェイドさんは、それをちゃんと受け止めて逃げ出さずにこうやって向き合ってるじゃないですか。だから、ジェイドさんならきっと大丈夫だって私は信じてますからね!」


 全てを溶かしてしまうかのような微笑みで彼女は笑う。
 ありがとう。しかし、それは音にならなかった。所詮、私は冷たい人間なのだ。悲しみは消えるというなら、この彼女が与えてくれた喜びだっていつか消えてしまう。そういうものだろう、と誰かに問い掛けたくなる。

 誰に許しを請えばいい。誰に祈って救われる。
 隠して偽って、つぎはぎだらけの自分を引き摺ってここまで歩いて来たというのに。ひとまわり以上も歳の離れた少女に、その心の内はいとも簡単に探り当てられてしまった。否、知っていたのだからこれは適切な言葉ではなかったかもしれない。しかし、どこかで彼女ならわかってくれるのではないかと思う自分もいた。死霊使いなどと呼ばれていた人間が、よくもまあそんなことを考えたものだ。


「私は、ジェイドさんが生まれてきてくれてよかったって思ってます。それで、ジェイドさんには絶対幸せになってほしいんです!私だけじゃない。ルー君もティアも、ガイ様だってナタリアだって、アニスちゃんもイオン様もです!ネフリーさんにピオニー陛下でしょ……あっ、サフィールも忘れちゃダメですよね!それに……ネビリム先生だってきっとそう思ってくれてますよ」
「! そう、でしょうか……」
「そうに決まってます!大切な人の幸せを願うのは当たり前ですよ!」


 急にわかならくなった。一体、今まで私は何と闘ってきたのだろうか。今となっては闘う相手さえ解らない。けれど、確かに痛みは増えていき胸の奥の傷がじわりと熱を持つ。


「……ありがとうございます」


 それは、音になった。
 こんな私でも前に進めているのだろうか。誰にも教わらなかった歩き方。 注意深くではあるが、彼女が側に居てくれるのならば一歩ずつ確かに進めそうだ。


「今日はお礼を言うのは私の方です!生まれて来てくれてありがとうございます、ジェイドさん……っ!」


 今ならわかる気がした。

 この身ひとつあればいい。−−それでは足りなかった。
 余計な感情などを抱くから人という生き物は弱いのだ。−−それは間違いだった。


 少女は私の手を強く握って泣いていた。

 再び降り注いだ優しい言葉の雨に濡れる。全てを洗い流そうと試みるものの、傷は洗ったって傷のままだ。消えるどころか熱を持って疼き始めた傷口。この感情にまだ名前が付いていないことを祈りつつ、感じることを諦めるのがこれほど難しいことだとは思ってもみなかった。


「あなたは狡い人だ」


 終わらせる勇気などない。無くした後に残されたのは空白。その空白すら愛しいと感じるのは彼女のおかげなのだろうか。


「え!?ちょ、あ、あの……っ!ジェ、ジェ、ジェイドさん……っ!?」


 空白と一緒に彼女を腕の中に閉じ込めれば、これでもかというくらい顔を真っ赤にして魚のように口をぱくぱくとさせ酸素を欲しがっている。


「はい。なんでしょう?」
「じょ、状況がよくわからないのですが!こ、これは一体そのっ、どういうあれで、あの……っ」
「少しの間、お静かにお願いしますよ」


 真っ赤な林檎に口付けをひとつ落とせば、果実は更に真っ赤に熟した。
 
 借り物の力で構わない。自分ではよく見えやしないこの背を押してくれるのなら、それもいい。代わりなんてない、そこに確かな鼓動があるならそれがいい。


 優しい言葉の雨はいつしか乾く。他人事の様な虹が架かる。こんな私でも幸せだと笑える日があっていいのだろうか。悲しみは消えるというなら、喜びだってそういうものだろう。 いつか訪れるかもしれない不幸を呪うよりも、今は目の前にある大切な手をとって生きていければいい。
 自分に勝ったとか、負けただとか最早基準すらも解らなくなっていた。けれど、確かに守るべきものができた。


 誰にも教わらなかった幸せと夢。それと共に、私はまたひとつ歳を重ねた。



君と僕の幸福論
(消えない悲しみがあるなら、生き続ける意味だってあるだろう)


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