TexT;ぬらり(その他)

□蘆屋夫妻の馴れ初め
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コーヒーの香りが漂う落ち着いた雰囲気のコーヒーショップの中、木で出来た円テーブルの上に、何冊か冊子を置き、今にも溜め息が漏れだしそうな、冴えない表情で、竜二は、その一冊を読んでいる。
彼が着ているものは、和服で、素人目にも高価だとわかる着流しに羽織りという格好は、米国生まれのチェーン店の店内では、どうも浮いていた。
竜二の物憂げな眼差しの先にあるのは、求人情報誌で、戯れるようにページを捲っていた彼は、その手を、この店のロゴが入った白い紙コップに伸ばし、エスプレッソを一口飲む。
途端、その顔が、苦そうに歪んだ。
実は竜二は、こういったコーヒーショップを利用するのは、今日が初めてで、カウンターで注文する時点で、彼は大いに戸惑った。
長いカタカナで書かれた商品名は、それがどんな飲み物かなのかがまったくもって想像出来きない上、しかもサイズの単位も、初めて見るものだったのだ。
とりあえず、聞いたことのあるエスプレッソにしてはみたが、それがどんな味なのかもわからなかったため、スティックシュガーもミルクも彼は用意しなかった。
こんなにも苦いものなのかと、軽くカルチャーショックを受けた竜二は、紙コップの中身を凝視した後、それをテーブルに置いた。
気分転換を兼ね、自宅のある郊外から、ビルが立ち並ぶ市街地に出てきた竜二だったが、苦いコーヒーに、余計に気分が滅入り、行儀が悪いとわかりながらもテーブルに頬杖をつく。

「花開院流の次期家元さんが、求人情報誌なんかと睨めっこして、どうしはったんですか?」

不意にそう声を掛けられ、竜二は弾かれたように顔を上げた。
そこには、ストライプ柄のスーツを着た男が立っている。
肩ほどに伸ばした黒髪をうなじで一つに結んだ髪型の男は、竜二と目が合うなり、狐のように吊り上がった瞳を細め、にこり、と微笑んだ。
男の顔を見て、竜二は、『誰だ、あんた』という台詞をなんとか飲み込んだが、顔には、はっきりと出てしまう。

「あー…やっぱ覚えてはりません?」

他にも席が空いているというのに、男はちゃっかり竜二の正面の席に陣取るなり、スーツの胸ポケットから名刺を取り出し、竜二に渡した。

「蘆屋秀元…」

それを両手で受け取った竜二は、名刺に書かれた名前を呟いてみるが、記憶になく、眉間に皺が寄る。
名前の横に書かれた社名も覚えが無かったが、代表取締役の文字に、つい目がいく。

「なら、これならどうやろ?」

そう言って男が取り出したのは携帯電話で、男は、携帯電話を開き、待ち受け画面を竜二に見せた。
30インチの液晶画面に映っているのは、色彩豊かな大きな壺に生けられた鮮やかな色の紅梅。
それを見たなり、竜二は、これが自分の作品だと気付いたと同時に、それを生けた時のことを、微かにだが思い出した。
あれは、どこかの会社の何十周年かの記念パーティで、パーティ会場に設置する花を生けてほしいという依頼だった。
あれは、花器も花材も、先方が用意しているケースで、そういったことは珍しくはなかったが、あれほどまでに創作意欲を掻き立てられる物は無いと思えるほどに、素晴らしい紅梅だった。

「握手したことも、思い出してくれたかな?」

はっと息を飲んだような竜二の表情に、秀元は笑みを深め、手を差し出す。
その白い手を見て、自分のファンだと言って握手を求めてきた依頼人の顔を思い出した竜二の頭の中で、その顔と男の顔が見事に一致した。

「あの時は…どうも」

それ以外に言葉が見つからず、取り合えず竜二はぺこり、と会釈する。

「こちらこそ。あれな、すごい評判が良かったんやぁ。ボクもほんま鼻高くてな」

竜二の態度に気にした様子も見せず、秀元はニコニコと笑う。

「あれは…あの紅梅の枝振りが良かったんだ。あんな見事な紅梅、今まで見たことが無い」

先程までの憂いの表情とは打って変わって、生き生きとした瞳で、竜二は絶賛した。

「ほんまに華道が好きなんやね」

その顔に、秀元は優しげに口元をほころばせた。

「なら、なんで職なんか探してるん? それにこっちは賃貸マンションの情報誌やんなぁ?」

急に表情を引き締めた秀元は、テーブルに置いてあった冊子の一つを手に取る。

「まさか、自分用とちゃうよな?」

返せと手を伸ばして来た竜二の手よりも、更に冊子を高く上げた秀元は、怜悧な瞳で竜二を見つめ、尋ねる。

「っ…」

その瞳に、心の中を見透かされたようで声が出ず、竜二は嘘をつくタイミングを逃した。
竜二の姓は、花開院で、花開院家は、全国に数多くの門下生を抱える、日本でも指折りに入るぐらい有名な華道の流派だ。
竜二自身、その道で彼の名を知らぬ者などいないほど、名の知られた華道家で、何度も個展を開いている。

「…事情、聞かせてくれんかな? 職を探してるんなら、何か協力出来ると思うし」

竜二の思い詰めた表情に、幾分、口調を柔らかなものに変えた秀元は、そんな言葉を口にした。

「…別に特別な事情なんてない。ただ…華道をやっていくのが嫌になっただけだ。」

秀元の追及を逃れるように目を伏せた竜二は、抑揚の無い声で答える。

「…そら、まだ二回しか会(お)うで無い人間なんかに、深刻な事情なんて話せへんわな。聞いたボクが悪かったわ」

見え透いた嘘をつく竜二の態度に苛立ったのか、秀元は、そう冷たい声で言い放つなり、席を立った。

「…!」

秀元が席を立ったなり、うつむいていた竜二は、弾かれたように顔を上げる。
竜二が顔を上げた先には、怒っていると思っていた秀元が、優しい眼差しで竜二を見ていた。

「コーヒー、冷めてもたやろ? 新しいの買ってくるけど、何かリクエストある?」

そして続けられた言葉は、竜二の予想していなかったもので、呆気に取られていた竜二は、秀元の質問に、いや…とだけ答える。

「まかせる」

苦くないものを、というのは恥ずかしく、竜二は秀元に丸投げすることにした。
それに笑顔でうなずいた秀元は、カウンターへ向かう。
その背中を見つめながら、竜二は、秀元に見捨てられなかったことに安堵している自分に気付いた。

「お待たせ、熱いから気ぃつけてな」

それから少しして戻ってきた秀元は、そう言って、紙コップを竜二に渡す。
竜二が受け取ったそれは、温かく、白い泡状のクリームの上に、濃い琥珀色のソースがかかっている。

「キャラメルマキアートって言うんよ、それ」

初めて見る飲み物をまじまじと見つめている竜二にそう教えた秀元は、竜二が一口飲んだだけで放置していたエスプレッソの入った紙コップを手に取り、それを飲んだ。

「!不味いだろう? それにもう冷めてる」

自分の代わりに飲んでくれるとは思わなかった竜二は、秀元の行動に驚いた顔をする。

「んー?こんなもんやと思うけど? それにボク、猫舌やから、これくらいがちょうどええんよ」

冗談とも本気とも取れる口調でそう返した秀元は、片目を閉じて笑う。
秀元の気遣いが嬉しく、自然と弛んだ唇を紙コップにつけた竜二は、キャラメルマキアートを一口飲んだ。
それは、先程飲んだコーヒーとは正反対に甘い。
けれど、ほろ苦さが後から来て、甘過ぎず、苦すぎなくて、もう一口欲しくなる。

「美味しい?」

秀元の問いに、竜二は、ふと唇に笑みを見せた。
彼らが今日出会ってから、初めて竜二が見せた笑顔に、秀元は目を奪われる。

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