読み切り

□カウントダウン
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洗面所が紅く染まる

止まらない咳に、背筋が凍った

恐れていたものが、やってきてしまった

持病の力が私の体を、じわじわと蝕んでる…

両親が死んで。柊と二人きりになったこの世界で、自分の体がどうなるか…何度も思い悩んだこともある

それでも…数年間、何事もなかったのに



洗面所の鏡を見つめる

鏡の向こうに映る、薄茶色の髪とそれを結わう桃色の紐が微かに揺れた

はっとして洗面所を大急ぎで洗う

両の手と自分の顔も…

彼には 

柊だけには知られてはいけない

知られたくない


強く握る拳からも血が滴り落ちそうだった

きつく閉じた両の瞼から、涙が溢れそうだ






「やっと…あの子が大きくなったのに、毎日が幸せと思える様になったのに…」

最近顔色が悪いと。毎日のように心配していた愛する人の顔を思い出す

『そんなことないわ』なんでもないように そっけなく返したけれど

この体に異変が起こっていることは解っていた

歩くことはおろか、起き上がることも 難しくなっている

全身の力が何かに吸い取られているように

一瞬 一瞬

まるで死へのカウントダウンをするように…



愛する人の待つベッドへ戻ると、ベッドの主は軽く目を覚ましていた

「咳き込んでいたね。」

寝起きの声でそう言われる

「うん…ちょっとむせたみたい。」

微笑んでみたけれど、それが弱々しいことにこの人が気づかないわけもない…

「どうして黙っているの?」

寝起きのはっきりしない瞳で、強く見据えられる

のどがゴクリと鳴った

「何を?」

そう言うと、彼は切なげに眉をひそめた

そうして…私の青白い手を取り、掌に口付ける

彼の横に寝転がる

まるで私の心音を確かめるように、彼は私の胸元に頭を置いた…



「…平気?苦しくない?」

子供のように私を見つめる彼

きっと、この瞼の奥の涙には気づかれている

「何でもないわ」

そう言って笑った

なのに、彼の表情はもっと曇ってしまった

「柊?」

彼は両手で力いっぱい、痩せ細ってしまったこの体を抱きしめる

前よりもずっと細いはずなのに

彼はそれについては、きっと『敢えて』何も言わなかった



彼の髪をそっと撫でてやる

まるで子供にそうするように

「  …」

震える声でそう呼ばれる

きっと、この人は全て解っているの

残される方が、去りゆく方よりも辛いのかもしれない…

だけど、この人はきっと理解してしまった

私の体が死へのカウントダウンを刻んでいることも

それを助ける術がないことも

「俺が平気じゃないよ。苦しい。苦しくて仕方ないんだ。」

彼の腕にいっそう力がこもる


私は何も言えない

か細くなってしまった、私の体が軋む程に 力を込める彼

「どこにも行かないで…」

消え入りそうな声で懇願するように、私の瞳を見つめて彼はそう言った

潤む黒い瞳…

まるで水晶のように

胸が痛い

息苦しいのは、病気の所為ではないようだった…

「バカね、私はここにいるのに。」

そんな言葉。救いにもならない

私は彼を一人にして、もうすぐ逝ってしまうだろうし

彼も、私を追ったりは絶対しないだろう

もしも彼が私が彼を愛するように…私を愛しているのだとしたら…

体が軽く震えた

『ごめんね…』

その瞬間まで、決して口には出せないけれど

その瞬間に、彼は側にいてくれるのだろうか

彼の不安そうな目なんて…見たくないのだけれど





彼の腕の中で軽く咳き込む

彼の優しい手が背中を滑った

『怖い』とは思わない

ただ、彼を…柊を一人にするのが悲しくて苦しいだけ


刻一刻と、死へのカウントダウンを刻むこの体

どんなに願っても、私は必ず彼を…
こんな誰も頼る人の居ない世界の真ん中に一人置き去りにしてしまう

「おやすみなさい。」

そう言って目をつぶる

彼は、まるで私が生きているか確認するように 






いつまでも、私のに耳を当て続ける…









(さようなら。とは言いません…
変わりに、私は何度も何度もありどかう。と言うでしょう…)


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