tennis

□小鳥たちは夢をみる
1ページ/2ページ











吐く息は白く濁る。辺りには一面の田畑が広がる無人の駅であった。その枯れた茶の景色の中、ぽつんと設置されたベンチにただ一つだけ薄桃が淡く輝いている。それはひどく懐かしい、白石の記憶の中で擦り切れるほどに再生された初めて出会った日の彼女と同じだった。













明治維新という日本の変革が終わってなお、医学を志すことは簡単な道のりではないことなど、父を普段から間近に見ていた白石には最初からわかっていた。それでもこの道を選んだのはひとえに白石蔵ノ介が白石家の長男だからである。この家に男児は己しかいない。最初から決められていた選択だった。別にそれを恨んでいたりなどはしていない。家業を長男が継ぐのはしごく当たり前で、当然自分もそうであると考える主義だ。
しかしその道を極めるには豊富な知識が必要である。つまるところ、大学で得られる高水準の専門知識が必要ということだった。

「東京に出なさい」

地元の学校に通う日々のとある日、突然父に呼び出された白石に父はこう言った。大阪にだって帝大はある。しかし父が東京に出ろというからには何かがあるのだと感じた。

「私の学生時代の友人にお前のことを話した折、書生としてお前を預かっても構わないと言われた」
「書生、ですか」
「お前が一高に通い、東京帝大を目指すのなら支援してくださるということだ。医学及び薬学を志すうえで東京で知識を得られるということはこの上なく幸運なこと。ゆえにこの話、無碍には出来ん」

母、姉、そして妹の友香里にこのことを話すと母と姉は素直に喜んでくれた。しかし家族内で最も仲が良かった友香里は、夜自室に引っ込もうとする白石の襟首を掴んで庭に引っ張りだすと突然泣きながら抱きついてきたのだった。

「なんでやねん、クーちゃんのド阿呆」
「友香里、クーちゃん呼ぶな言うたやろ。万一父上に聞かれたら叱られるのん友香里や」
「またそないに父上父上!クーちゃんはそればっかりや。東京に出ることかてほんまは本望とちゃうんやないの」
「本望や」

ゆっくりと友香里の腕を引き剥がす。涙で潤んだ友香里の眼が揺れるのが見えた。

「間違いなく、これが本望なんや」

確かめるように強かに呟くと友香里の冷えた指先はもう白石を掴んでこようとはしなかった。しかし彼女はキッと白石をねめつけ、いつか必ず後悔する時が来る、と怨みがこもった呻きを残したのだった。

「(後悔しない人生なんて有り得ないんや、それが当たり前やろ)」

それ以降友香里とは口を利くこともなく、白石蔵ノ介は東京へと発った。













書生を抱え込むということは一部の資産家や篤志家にとってはある種のステイタスであるというが、それは全ての家庭に該当するわけではない。当然地元出身で官僚を目指すような書生であるならいずれメリットになることもあるであろうが、白石のような、東京出身のインテリで官僚を目指す書生ではない者を抱え込むことはただ負担になるだけだ。出世の見込みなどない。だからこそ白石は自分の面倒をみてくれるという相手は悪趣味な成金かはたまた相当な阿呆であると踏んでいたのだが。

「(こりゃまたえらく大きいお屋敷やな)」

大きさこそ期待を裏切らない規模であったが、手入れの行き届いた庭の玉砂利、落ち着いた調度品などなかなかに趣味は悪くはなかった。白石はしっかり構えられた門をくぐり、邸の中に声を投げ掛ける。

「あのォ、すみません」

広い屋敷に白石の声は響かない。もう一度声をかけてみるも返答はなく、思わず困ったようにため息をひとつこぼしたとき。

「どちら様でしょうか」

鈴が転がるような涼しげな声が後ろからとんできて、白石が振り返ったそこには薄桃の着物を着た少女が立っていた。おそらくさして年齢は変わらないであろう少女は眼を丸くしてこちらを覗きこんでいる。透き通るような彼女の白さと上品な顔立ち、白石にはすぐにここに住むお嬢さんなのだとわかった。

「今日からこちらにお世話になる者なのですが」
「ああ、貴方が…」
「はい、白石蔵ノ介と申します」
「白石さんですね、父から話は伺っております。どうぞ上がってください」

白石の名を出すと彼女はすぐに笑顔を作る。笑顔になると上品な顔が少しあどけなくなって可愛らしかった。

お嬢さんに連れられ彼女の父の所に向かう道中、お嬢さんについて色々と教えてもらった。やはり年齢は白石と同じようだが、彼女は高等女学校を卒業して以降は家事に従事しているようである。お嬢さんの屋敷の規模から鑑みて、彼女に更なる教育を受けさせることも可能なのだろうが、彼女の父はそれを望まないらしい。

「いずれは結婚の話でも持ってくるつもりなのでしょう。父はそういう人です」
「そんな言い方はいけませんよ。きっと貴方が大事なのです」
「そうでしょうか。娘を籠の中の鳥にしておくことが大事にする事と同義だと、はたして言えるの?」

あわてて声を荒げてすまないと頭を下げる彼女の顔を上げさせた白石に彼女は再び微笑んだ。やはり少しだけあどけなく見えるその顔はとても美しいと、白石は心のうちで呟いた。

彼女の父は厳格そうな男だという白石のイメージを裏切り、彼はとても気さくで優しそうな男に見えた。とても娘を苦しめるような男には見えなかったのだが、それは他人の視点からみた印象だからだろうか。白石にはわからなかった。

「自分の第二の家だと思って、好きにしてくれて構わない。その代わり、勉学にはしっかりと励んでくれたまえ」

これが初日に交わされた白石と篤志家の彼との唯一の約束だった。正直、もう一人人間を養わなければならない人間の言い分だとは思えなかったがこんなものなのかもしれない、と白石は割り切ることにする。有り難い話ではあるのだ。少しでも負担を減らせるように自分に出来る範囲のことは精一杯やるが、その言葉に多少は甘えさせてもらうことにした。













「蔵ノ介さん」

彼女が己を呼ぶ声はいつも透き通っていて、鈴のように美しいと白石は感じる。その感情は紛れもない恋心であると白石が気付いてから数ヶ月が経った。庭のあやめを眺めながら趣味の小説を書いていたある日、お嬢さんは突然白石の部屋にやってきたのだった。

「お嬢さん、どうしたのですか」
「蔵ノ介さん、私と一緒に街へ出ていただきたいのです」
「買い出しか何かですか。もちろん喜んでご一緒させてもらいますよ」
「買い出しではないの」

お嬢さんはいつもの柔らかい雰囲気とはまた違う、張り詰めたような雰囲気で言った。

「私の我が儘、きいていただけますか」

白石は僅かな違和感と共に彼女の言葉に頷いた。

彼女に連れられるままに街中を歩く。東京の街並みは最近になってようやく慣れてきたのか、ある程度の方向感覚がついてきた。見慣れた道をゆっくり進む。そして彼女は角にある甘味処で足を止めると、なかばひっぱりこむように白石を中に連れ込んだ。

「豆かんを二つ」
「お嬢さん、自分は…」
「我が儘をきいてくださるとおっしゃった筈です」

我が儘をきくとはお嬢さんの我が儘を全てきくと、そういう意味だったのか。こちらはそういう意味で捉えていなかったが。しかし白石が知る中でお嬢さんはいつも慎ましく、こんなに強引な彼女はとても新鮮だった。そしてそういった彼女の新たな一面を見れて白石は素直に嬉しく感じる。やがて届いた豆かんは涼しげに透き通っていて、それは白石にとって懐かしい光景だった。ふと白石の脳裏に友香里の姿が浮かぶ。

「蔵ノ介さん、そんなに難しい顔をなすって。やはり甘味はお嫌いでしたか」
「い、いえ!ただ、昔は妹とよく甘味処に行ったなあと思っただけです」
「ああ、大阪の妹さん」
「ええ、妹も甘味が好きで。せがまれてよく甘味処にも行きました」
「仲が良かったのですね」
「ええ、兄妹間では一番仲が良かったです。妹もクーちゃんと呼んで懐いてくれていました」
「クーちゃん?」
「そうです。何べんもクーちゃん呼んだらあかん、父上に聞かれたら怒られるで!と言っていたのですが」

くすり、と困ったように笑いながら白石が言うと彼女はひどく驚いた顔をする。

「…初めて蔵ノ介さんの大阪ことばを聞きました」
「…っ、すみません、失礼の無いように関東では話さないようにしていたのですが、つい地が出てしまって…」
「いいえ!とても素敵です。隠す必要なんてないわ!」
「しかし…」
「自分の故郷の言葉は誇りに思うべきです。それに、…」
「…それに?」
「…それに、大阪ことばの蔵ノ介さんがいつもより男性らしくて、その…」
「…っ」
「とても、魅力的で素敵、だと思って…」

白石が左手に持っていた木匙からぽろりと寒天が落ち、それと同時に白石は自分の頬べたが急激に熱くなったのを感じた。お嬢さんは慌てたように残りの豆かんを頬張ると、ひたすら黙りこくってしまう。どうやら白石が食べ終わるのは待ってくれるようだった。

「(あかん、歯止めが利かんようになるわ…)」

冷たい寒天で上がった体温を無理やり下げることに集中しようと、白石も真似して豆かんを掻き込む。お嬢さんはそんな白石を見て驚いた顔をしたが、やがてプッと噴き出した。それにつられて彼女と二人、しばらく笑いあっていた。

お嬢さんは次々に色々なところへ白石を連れ回した。それは可愛らしい呉服屋であったり、珍しい犬を飼っている見知らぬ家であったり、はたまたお嬢さんが昔に通っていた高等女学校であったり。一ヶ所一ヶ所をまわるたびに彼女は様々な表情を見せる。その殆どは白石の知らないもので、白石はまた一つまた一つと彼女の新たな一面を見るたびに胸が熱くなるのを感じた。やがて迫ってきた夕刻に、彼女がここが最後だからと白石を連れてきたのは一件の屋敷だった。規模は彼女の屋敷とさして変わらない。表札には幸村と書かれている。白石の知らない名前であった。

「お嬢さん、ここは…」
「蔵ノ介さん、今日は私の我が儘をきいて下さってありがとうございました。最後に蔵ノ介さんと一緒に過ごせて楽しかったです」
「お待ちください、最後って一体…」
「私は今日からこの屋敷の鳥になります」

愕然とした。いつの間にそんな話が進んでいたのか白石は知らなかったし、今日からということはもう既に彼女の荷はこの屋敷に運ばれているわけで、それがいつ行われたのかも知らなかった。ただ白石には今日一日お嬢さんに騙されたという気がして、ふと、別れ際の友香里の声が脳内で反芻される。―いつか必ず後悔するときがくる。それは理解していたはずだったし、事実あのとき白石はそんな事は分かっていると友香里の警告に耳を傾けなかったのだ。しかしそれがどうだ、すっかり気落ちしてしまった己がいる。

「蔵ノ介さん、」
「…やめてください、今の俺には何も言わんで、」
「蔵ノ介さん!」
「あかんって言うとるやろ!俺はお嬢さん、あんたのことがずっと好きで!ずっと同じ屋敷で一緒に暮らせたらいいと、何べん思ったことか…!それなのに、こんな独りよがり…」
「独りよがりなんかじゃない!」

彼女は大きな瞳を揺らめかせながら息を一つ吸い込む。

「独りよがりではありません。私は、あなたが好きなのです。だから、私も戦います。自由を手に入れるために」
「戦うってどないするん」
「結婚の話は既に固められてしまいました。曲げることはもはや不可能です。ですから機を見て逃げます。この家からも、父からも」
「お嬢さん…」
「その時は、また我が儘をきいて下さいますか」

保証なんてどこにも無いことは分かっていたしそれに何年かかるかも白石には検討がつかなかった。

「…わかりました」

それでも了承したのはきっと、彼女と出会ってしまった時点で不可避なことになったのだと思った。



次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ