小説

□シンクロ
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騒がしい都会の濁った空気に満たされ、地下鉄の独特の空気を吸いながら電車に乗り込んだ。降りてくる人たちと肩がこすれ合ったが、誰も謝りもしない。かき分けるように電車を降りていく。僕だって負けずに押し入った。発車音がなり、扉が強制的に人を押し込む。駆け込んだサラリーマンの鞄がドアに挟まり、扉が開き、すぐに閉まる。
 悲鳴が上がった。サラリーマンではなく、すぐ近くの女性だった。痴漢かと思ったら、どよめきが広がり、異常な空気が漂った。サングラスにマスク、ニット帽の男がナイフを持ち出している。女性は腹部に手を当てている。その先からは鮮血が滝のように溢れ出していた。眠っていた老人、大声で雑談していた小学生、携帯を打っている女子高生も、その男の様子を凝視した。席を立って、すぐに離れた青年もいる。それが一番正しかった。
 男のすぐ隣に立っていたサラリーマンが首から血を噴いて倒れた。そのすぐ後ろのお婆さんが、膝をついた。足にナイフが刺さっている。
 車内は悲鳴の嵐となって、隣の車両に逃げようとする人で津波のように押し合った。僕のヘッドホンも、人に押されて、外れてしまった。いくつもはめた指輪が僕に向かって逃げてくる人のカバンにぶつかって、何度もお互いの動きを妨げた。
 「どけ、この野郎」
 この場で罵倒された僕は嫌に頭に来た。普段はこれぐらいでは胃が痛むほど怒ったりはしない。だけど、今日は違った。原因はすぐに分かった。僕は弟とシンクロしているちょっと変わった体質だからだ。弟が怒ると、僕も理由もなくいらついてくる。弟が泣き出すと、僕も少し悲しくなる。それは、弟がすぐ近くにいなくても、全国どこにいても起きる現象だった。
 僕も人の波に乗って逃げようとした。すると、後ろで更に悲鳴が上がった。会社員の女性が脇腹を刺された。床に血のりを広げながら、這ってでも逃げようとする。そこへ、ナイフの男は馬乗りになり、女性の背中を突き刺した。その瞬間、言いがたい歓喜が僕の喉を伝ってきた。なんて、理不尽で、もっともらしい光景なのだろう。僕は車内で響き渡る狂おしい叫びに酔いはじめた。
 ナイフ男を止めようと、体格のいいサラリーマンが男に飛びかかった。ナイフの男は小柄な体格を活かし、サラリーマンの懐にナイフをいち早く突き刺した。僕の前髪にも血が噴きかかった。動悸が早まる。息切れさえ起こしそうだ。僕はどうかしている。それとも、弟に何かあったのか?
 車内の惨事を聞きつけた車掌が入ってきた。乗客は、車掌に道を開けた。
 「やめなさい。そんなことは、さあナイフを置いて!」
 ナイフの男は、息を切らして車掌にナイフを振りかぶった。車掌の悲鳴。弾ける赤い雫。電車はカーブに入り、耳障りな金属の擦れ合う音を立てた。電車が減速し、駅についた。
 「下がって! 乗らないで下さい!」
 駅は、何も知らない乗客が混乱していた。
 僕は、安心した。何だかとても、誇らしい気持ちなのだ。何もしていないのに、晴れやかな空の下にいるようだった。誰もが、僕を見ている。喚き、嘆き、泣き叫ぶ乗客と、僕は無縁だった。ただ一人孤立していた。いや、独立といった方が正しかった。
 僕は、自由を得た。
 ふと我に返った。僕の目の前では、膝をつき怯える人々と、ナイフの男の姿が見えた。警察が取り囲む車内で、ナイフの男と僕は立ち尽くしていた。僕の中に不安が広がる。これは今の自分の感情だ。僕は、車内の明かりが全て消えたような錯覚を覚えた。さっきまでの感情は僕のものではなかったのだ。
 「嘘だ」
 口をついて出た言葉は震えていた。足元に散らばる死体の山、赤い水のじゅうたんの上。ナイフの男はサングラスを床に落とした。血液の上をサングラスは線を描いて滑った。僕は、男の顔を見ることができない。嬉しいのだ。僕は笑っている。僕達は笑っている。
 「ごめんね兄さん」
 マスクを外して、笑いかけてきたのは弟だった。


 

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