戒律の魔女
□黒い蹄が運ぶ
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「しゅしゅ」
つぶらな瞳がたゆたう闇を見つめ、皮肉げに歪んだ唇が小さく呟く。
しゅしゅ、しゅしゅ、と舌先で転がす様に甘く。
『お喚びですか、ヨイラン様』
ちりりと丸い右肩から揺らめき立ち上る紫紺の焔。煙も焦げた臭いも出さない混じり気のない炎の塊は、ヨイランの広げた右腕をぐるぐると駆けて指先の更に先で虚空に消える。
「しゅしゅ、しゅーしゅ」
『文字にしますと平仮名の表記になる名は、生憎と持ち合わせておりません』
「シュ」
『片仮名も』
「…ツマラナイ」
ツマラナイ、そんな言葉にはそぐわない楽しげな様子で、ヨイランが薄い唇を吊り上げる。
「まぁ良いや、朱朱」
揺らめく炎は紫にも似た紺…闇を切り裂く暁と日輪を呑み込む夜に通ずる、どちら着かずの曖昧な色。
朱朱とはよくぞ名付けたものだとヨイランは笑う。
朱と朱でしゅしゅ。
暁も落陽も、あれはどちらも落ちるのは朱の色。
「俺が何故お前を喚んだか解るか?」
『それが、使い魔でありますれば』
紫紺の炎がヨイランの足元に円を描いて散る。不本意ながら、と訴えるかの様な動きだった。
『如何なさいますか』
「もちろん、追い払うに決まってる」
『追い払う、とおっしゃる』
耳元に紫の火花が散って、クッと嗤ったような気配がする。
『あの様な手合いと言えど悪魔は悪魔、それを餌になさると?』
「まさか、俺の餌は別のものさ」
肩に揺蕩う紫の炎に、まるで睦言を囁く様にヨイランは唇を寄せた。
『…それはそれで如何なものかと。僭越ながら申し上げれば、それは人が悪魔と呼ぶ所業でございましょう』
紫紺の炎がヨイランの背中から羽根の様にブワリと立ち上り、轟々と燃え盛る。
「良い餌は大物を釣り上げる、そうだろう?」
『お可哀相に』
クスリと耳元に落ちた低い嗤いを拾い上げ、口許を緩めて紫の焔を撫で上げれば、熱を持たない魔性の焔が両脇を通って前へと回った。
「上には上がいるものだ。生温いさ、俺なんか」
手を象る様に五つに裂けた炎にほっそりした指を絡ませて、頬ずりするように揺れる炎に口づけを落とす。
炎が人を形作り、歪み、揺らぎ…やがてそれに少しずつ質感が加わっていく。
滑らかな皮膚の感触、骨張った角の有るフォルム、密な睫毛に縁取られ紫紺の炎を宿した瞳が、ヨイランを見つめて甘く蕩ける。
「ヨイラン様」
頭に直接語りかける様な茫洋さが消え、はっきりと低い声が闇を震わせる。
「朱朱…」
重なり合わせた唇が離れてはまた重なり、ぶかぶかのカッターシャツが秘やかに背中を滑り落ちた。
「ん、朱朱…」
褐色の掌に包まれた己の掌を見遣り、胸元に唇を落とす使い魔にうっすらと微笑む。
「お預けだ、朱朱」
とろんっ…と鼓膜を蕩かす甘い声音で、引き寄せた褐色の手に唇で触れて囁く。
「続きはまた後で」
「…酷い方だ」
素直に身を起こしながら、朱朱の広い肩が可笑しげに震えた。
「先に意地悪したのはお前だろう?俺はとっくに名前を呼んだのに、いつまでも身体を向こうにおいたままで」
「なるほど、罰ですか」
紫の炎が踊る瞳に面白がる色が散って、朱朱の唇がゆっくりと吊り上がる。
「我慢するのは得意でございますよ」
首筋に顔を埋める朱朱から挑発めいた笑みで逃れると、緩く息を吐いて双眸に熟れた果実の甘みを孕ませる。
「楽しみにしてる」
魔界に有るという罪の果実はこんな風に人を誘うのだろうと、白い手の甲に恭しく口付けながら朱朱は嗤った。
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