戒律の魔女

□青い色の涙
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『よもや斯様な事が起こり得ようとは』

 いつもは心地良く響く筈のバリトンの声が、最初の一音を聞いただけで容易にそれと解るほど渋い。

『偶然とは恐ろしゅうございますね、ええ本当に』

 今もしこの使い魔が現に実体を現したなら。
さぞかし精悍に整った褐色の顔を難しく歪めているに違いないと、主たる少年は右手で頭を抱えて唸る。

『宵蘭様』
「分かった。いや分かってるから朱朱、お前の言いたい事は」
『それでは宵蘭様には何か策がお有りなのでございますね』

 確認する様な尋ね方で、今にも皮肉の一つでも付け足しそうな雰囲気を醸し出す使い魔に、宵蘭は無言で以って応えた。

『使い魔として進言いたしましょうか、早急に離れるべきだと。それとも…』

 目元にサッと長く黒い睫毛の影が落ちる。

『今からではもう全てが遅きに失していると、改めて現実を突き付けた方がよろしゅうございますか』

 僅かに咎める響きを持った朱朱の言葉に宵蘭は紅い唇を強く引き結び、そしてゆっくりと口角を吊り上げる。
それは固い蕾が綻ぶ様にも、冷たい氷が溶けゆく様にも似ていた。


「全ての生き物は理の中に生きて、理に沿って死ぬものだ」


 風が雲を呼び、雲は雨を降らせ雨は大地を潤し、種を蒔けば花が咲き、花は実を結んで新たな種を残して枯れていく…そんな当たり前。
食物連鎖、慣性の法則、万有引力…個人を取り巻く世界の全て。

「約定の一、 界を渡ることを禁ず
約定のニ、 殺すことを禁ず
約定の三、 名を持つことを禁ず
約定の四、 交わることを禁ず
約定の五、 約定を違えるを禁ず」

 世界に生まれ出でた一つ一つの存在が、誕生の瞬間から負う役割と意義。

「“五つの約定"とは理を守る為の掟であり、一つ一つの戒律にはそれぞれに意味と意義が有る。
一は世界の理を、二と三は理の中の“個"を守り四は“種"を守り、五はそれらを守る決まりを守る」

 憂える響きを持った声が空気を震わす。

「二の掟を破るということは異なる理同士をぶつけ合い、相手の理を壊し自分自身をも壊すということだ」

 例えば殴り合いの喧嘩。
殴られれば頬は腫れ上がり、殴れば手は痛み熱を持つ…勝ったからといってノーダメージでは居られない。
ただその度合いが勝てば少なく、負けた方がより大きくなるというだけで、互いに痛みを感じ傷を負うのに違いは無い。

 ぶつかり合う物が拳ではなく目に見えない物だったとしても、それは同じだ。
双方に必ず痕は残る…負けた方により深く致命的に。
少し前に、飢えに苦しみ、狂った様に生気を求めなければならなかったサクバスを消したが…恐らくはあれも。

「理から外れた者は即ち異端、異端な者を世界が受け入れることはない」

 死ねば魂は体から切り離され体は土へ帰る…生き物が持つ当たり前の末路。それが覆される。
魂は世界から閉め出され、肉体は食物連鎖から除外され。
やがて死した魂は救いを求めて彷迷い始める…腐りもしない身体を引きずって。

「未来とは常に変化するもの、現状とは常に不確かなものだと思わないか」

 なぁ朱朱?と首を傾ぎ肩の辺りを彷徨う炎を、指先で擽る様に撫でる。紫がかった光に縁取られた白い輪郭は、ゾッとするほど妖艶だった。

「想像しうる範囲の事はなかなか起きない癖に、及びも着かない事は本当に良く起きる」

 揺らめく幾つかの炎を戯れに胸元に集めながら耳から入り込んで脳髄を蕩かす様に、唇だけで静かに吐息を吐く。

「救われないアンデッド」

 官能的な甘い溜め息は霧となって空気を侵食し、やがて甘美な余韻だけを残して消えた。

「別に良い、それならばそれでも」
『ですが』
「“魔女”には」

 言いかけた朱朱を遮り宵蘭は空を見据える。

「それが一番、都合が良いのさ」

 あたかも何者かがそこに居るかのように、真っ直ぐ。


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