*空とぶ羊*

□ご。
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「ただいま」

築四十年だか知らないけれど、昭和の風情漂うボロの黴臭い古ぼけたアパートに、僕は住んでいた。部屋には誰もいないのだけれど、母の長年の教育も賜物というやつで、一度身についた習慣は中々無くなりはしなかった。文字通り“身体”に教えられた訳だし。
僕は母親から中学卒業まで、虐待を受けていたのだった。虐待というよりは最後のほうはほぼ育児放棄に近く、僕は介護人に近かったと思う。ほぼ母は寝たきりの生活を送っていて、僕が朝食、昼食、夕食を作り、ある程度の家事をこなし、母の調子が良かった時は罵詈雑言と軽度の暴力(主に殴打)を受けた。それが中学生時代の僕の日常。
虐待と一概に言っても、ドラマの様な過激な暴力を受けたわけではない。病弱な母の腕力じゃあ大した傷にはならなかったし、何より母は情緒不安定で、普段は割りと温厚で温和な昔の母の面影が現れていた。虐待されている身としては、そう考えると比較的幸福な(というのも変な話だが)子供だったのではないかと思う。
で、だ。
家庭がそんな状態で、僕の父親はどうしていたのかというと。
浮気、していたのだった。
というかそもそも。父の浮気が家庭崩壊の原因なのだった。
鴛鴦夫婦として定評があった僕の両親は、同時にその定評を誇らしく思っている節があった。自分たちの幸福さを、誇示している節が。そんな母だったからこそ、父の不祥事の発覚はかなり精神を追い詰めたのだろう。
とうとう僕の両親は、別居した。離婚はさすがに世間体を考慮してかしなかった。父は養育費や生活費諸々は母に渡していたので金銭的には困らなかったが、母は少しずつ、確実に壊れ始めていた。それに伴い暴力はエスカレート――なんてことは無かったが、鬱状態と燥状態では、圧倒的に鬱状態の時間のほうが多くなった。
こうして改めてみると、中々僕もありきたりな人生を送っているな、と感心してしまう。
父親の浮気が原因で家庭崩壊、なんて、ドラマにしろ漫画にしろ現実にしろ、ありきたりすぎて苦笑してしまうほどだ。


「あ、おかえりなさーい」

そして、誰もいないはずの僕の部屋から、若い女の子の間延びした声が聞こえた。

「うん…。 って、え」

思わず身体が固まる。軽くホラーじゃねぇか。

「遅いですよ、椋木くん!!桐谷末春(きりたにみはる)はお腹がペコペコです!!」

奥の部屋から聞こえてくる声。ああ、末春ちゃんか――。

「椋木くん、ほらほら!!早く末春の夕飯作って下さい!!」


桐谷末春。

僕の隣人である女子中学生だ。中学生から女の子が一人暮らしなんて、少し親の危機感を疑うが、所詮他人だ。十さんに見習って、という訳ではないけれど、第三者ということを弁え、他人の家庭なんかには基本深入りしないようにしている。

にしても、だ。

「末春ちゃん、あのさ…」

僕は今まさに、呆れてものも言えない状態に陥っていた。ふぇ?ともう狙っているとしか思えないような間抜けな返事を返す末春ちゃん。僕はいっておくが断じて可愛いとかは思っていない。

「まずアレだ。これ、不法侵入だよね。てかどうやって入ったの」

「うふふー、このアパートはボロっちぃから“これ”で容易に開けれるんです!凄いでしょ、末春!!」

「セキュリティ軽薄すぎる…どっちかっていうとアパートの造りのほうがすげぇよ…」


この子は僕のATフィールドを無理矢理引き裂いて内側まで侵入してくる。八雲はいい奴だから土足で踏み入ったりはしないし、僕に対して末春ちゃんくらいしか馴れ馴れしい人間はいない。こればっかりは断言しよう。僕と彼女のスタンスは真っ向から反対で、でも相容れないというわけではなかった。
末春ちゃんは得意げに見せた針金でここに侵入してきたらしかった。さすが昭和風情溢れるアパート、昭和な手法で侵入も可能と言うことか。とんでもない所だ。

「にしても、随分と帰りが遅かったですねー…。末春寂しかったです」

「うん。家はどうも居心地が悪くてね」

「えぇっ!?何でですか!!椋木くんの居心地を悪くしてるような奴は、末春がボコボコにしますよ!!」

「意気込んでるとこ悪いんだけどさ。それ、ぶっちゃけ末春ちゃんなんだよね」

「嘘!!!」

「いや本当。てことで還れ。土に」

「土にっ!? ところで椋木くん、晶平くんとまた遊んでたんですか?末春と言うものがありながら、貴方って人は…!!」

「一丁前に女房気取りはやめてくれよ…ん?末春ちゃん、八雲のこと知ってるの?」

「ええ、そりゃもう。晶平くんは末春の兄のようなものです!!!」

「…、それ本当?」

「うっふふ〜教えません〜」


どうやら言う気は無いらしい。まぁそのうち解ることだし、僕は特には気に留めないことにした。

「つーか、君の食費まで僕もちって正直キツイんだけど」

思わずそんな呟きが漏れてしまった。末春ちゃんにも聞こえていたらしい。しまった、また僕の悪癖が出てしまった。

「うーん、そうですよねぇ…。末春、そういう金銭感覚、ちょっとズレてるんです。許してください」

「・・・・・」

「なのでっ!!明日から末春の家の食材使って下さい!!パパが毎回仕送りしてきてて…ゴミ部屋と化してるんです〜」

「親父さんの良心をゴミ呼ばわりは置いておいて、そんなら自分で料理しなよ」

いや、食材持ちは正直滅茶苦茶助かるんだけど。

「末春は料理が出来ない箱入り娘なのです」

「じゃあなんで一人暮らしなんか」

「社会を知りたかったのです!!」

ふふん、と鼻息を荒げ言う少女。何言ってんだこいつは、と呆れてしまう。

「ま、さっさと夕飯作るから待ってなさい」

「はーい」



結局。
僕の女難の相は母と縁を切っても続くようだった。





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