グリザイユ
□グリザイユ
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Prologue
細長い街道に、長い影が揺らめいた。
街道は鎮まりかえり、耳障りな高音が途絶えることなく鼓膜を揺らす。
切れかかった電灯が、影を濃くし、存在を明確に映し出した。
右に、左に、ゆらゆらと不安げに、そして不規則に、動く、動く。
影は揺らめきながら、街を徘徊するようにどこかへと歩みはじめた。
実態のない影は、建物をすり抜け、人々の家を覗く。
子供がベッドに横になってスヤスヤ眠っている。
大人は編み物をしたり、パブで杯を交わしあっている。
中には愚行を犯す者もあった。
しかし、影。
誰もその影に気付くものはいない。
影は家から抜け出ると、チャペルのある北の方向へ向かった。
端正で緻密な模様が掘られたチャペルの純白の扉も、影はまるで見えていないというかのように、コンマ一秒も止まることなくすり抜ける。
壁も天井も、扉と同じ眩しいけれどどこか柔らかい純白だった。
中央の祭壇の奥には神の絵が彫られている。
長髪を風に靡かせながら腰を曲げ、微笑みを纏い跪く人々に手を差し伸べる。
色こそ純白のみだが、そんなものは想像で容易に補えた。
白い画用紙に絵を描くのと同じ。
影は神を恨めしそうに睨みつけ、地響きのような低い唸り声を上げた。
しかし彫られた神は当然のこと、動くどころか顔色を変えることは出来ない。
それが不満だったのか、影は唸り声を威嚇に変え、神に襲いかかった。
されど、影。
実体がなければ、神に触ることも出来ない。
気付いた影は、もどかしいと言うように奇声を発した。
もしかしたら叫び声なのかもしれない。
鼓膜が破れる程の声量に、驚いた人々は耳を塞いだ。
ゆりかごの中の赤子は夢を引き千切られ、泣き叫ぶ。
影が人々の目には捉えられなくとも、声は届いてしまう。
人々がなんだなんだと教会に押し寄せてくるのは自明の白だ。
私の赤ちゃんを泣かせないで、鼓膜が破れてしまうわ。
怒りの存在に気付いた影は、吸い込まれるように消えていった。
「何にも染まることのない、我らこそが神」
そう、捨て台詞を吐いて。
後には、何事もなかったかのように佇む見慣れた景色だけ。
状況把握の出来ない人々は、立ち尽くすしかなかった。
あれは誰だったんだ、と。
◇◇◇
忙しない。
赤い絨毯が床一面に広がっているお陰で、ドタバタという足音こそは聞こえないが、それでも衣擦れや話し声などが静寂を喰らう。
免疫のない人ならば、そんなことはお構いなしに自分から静寂を喰らい、踏み心地を楽しむところなんだろうが。
生憎今の塔内に、そんな余裕のある人は皆無だった。
せかせかとすれ違う人達。
老若男女は顔色一つ変えることなく僕の目の前を通り過ぎて行く。
立ち止まった僕などに見向きをする人は一人もいない。
この調子ならば、僕がいなくなったって何日も気付いてもらえないだろうな、と一人自笑した。
気付いたところで探そうとする人はこの中に何人いるのやら。
「クロユリ! 何をしているの、もう始まってしまうわよ」
案外早く気付かれたようだ。
乳母が僕、クロユリを呼びに来た。
僕の名前の由来は、花の名前から。
花言葉が「恋」だったからだ、と母達は話していたけれど。
僕は知っていた。
クロユリの花言葉は「恋」だけじゃない、もう一つある。
そのもう一つの花言葉が「呪い」だ。
名付けてから気づいたのか、知っていて名付けたのか。
真相を知る術はないけれど、一つ、わかることがある。
両親と僕の間に、愛情という鎖はない。
跡継ぎという儀式的なものの間で出来た子供なんか、愛情を注げって方が無理なんだろう。
これもやはり、僕には理解しがたいことだけれど。
乳母が呼びに来たのはきっと今からはじまる入舎式に出席する僕がいなかったからだ。
すっぽかしてしまおう、という浅はかな考えは簡単に破かれた。
これは大規模な計画なので、確かにクロユリも呼ばれるのが筋ってもんだろうな、と終止符を打つが。
父と母も最近は見かけないし、この計画にも関わっていないと聞いた。
不自然な話だけど。
しかし、これはなにもクロユリだけではない、殆どの国民に関係あることだ。
一部例外がいるという話は聞いたことがあるけれど、これは内密だと釘を刺された。
大人たちはこの計画で国が平和になると信じているようだ。
僕はそう思わないけど、いずれ思うようになってしまうのかもしれない。
今の気持ちを忘れるのは快くないが。
何度忘れても思い返せるように、書き留めるのも悪くないと思った。
深呼吸をひとつ、冷たい空気が意識をハッキリさせる。
さあ、行こう。
僕は、この国の主になる者なのだから。
◇◇◇
神の降臨。
まさしくこの言葉は、今の状況を示す為にある。
床は黒く、天井は白く。
一見殺風景と思われがちだが、よく見れば凝った装飾品が胸を躍らせる。
灰色のローブを身に纏った美青年は、フードをはらった。
神よ、我らに恒久の平和を。
我が行く末の大岩よ、道に憚る時は終わったぞ。
祈りの言葉を捧げよう、さらなる発展を願って。
静寂に支配されていた場所に、美しい歌声が響き渡った。
澄んだその声は神への祈りを繰り返す。
しかし途中から歌ではなくなった。
祈りから、恐喝へ。
歌声から、怒号へ。
青年のそれは、声が嗄れるまで続いた。
最後に大きく咳き込むと、満足したように唇を湿らせた。
「我は、神など信じない」
信じるのは自分だけ、そう言い放つと、教会を背にして未練なく立ち去った。
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