紅に咲く
□紅に咲く
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プロローグ
覗くだけの毎日。
眩しくて広い世界。
見えない壁で二つに分かたれた、何よりも強力な檻。
「ねえ明烙、貴方から話を聞くだけなんてもう嫌よ」
外へ向けた視線を叩きつけるように畳に帰し、後ろに行儀よく座っている彼に、攸彌ゆうみ杳ようは容赦なく言った。
振り向きざまに黒い髪が視界を駆け、臙脂色の着物に影を落とす。
対する明烙のキッチリと後ろで縛られた短い髪は微動だにせず、薄藍の服も衣擦れひとつ起こさない。
自分だけが行くことのできない世界。
憧れ。
嫉妬。
言い尽くせないほどのこの感情を、どうしていいのかも分からず、明烙にあたってしまう。
悪いとは分かっていても、感情のコントロールが出来ない。
「貴女は大切な人なのです。外へ出ることは禁じられています。その代わりと言っては何ですが、何か面白いものを調達してきましょう」
「面白いもの?」
「何がお好みですか? 食べ物、玩具、読物、何でもお申し付けください」
明烙はそう言うと、片膝だけを立てて反対側の手を地面に付き、もう片方の手を立てた膝の上に添えた。
この彼の性格には、毎回驚かされる。
我儘で言った言葉に従順な態度で仕事を促す様はまるで、宥めるという簡単な対処法を知らないのではないかと思わせた。
「……双眼鏡が欲しい」
意外な答えだったのだろうか、明烙は黙ったままだ。
一縷の望みでさえ敵わないほど、残忍な世ではないことを祈る。
双眼鏡で覗けば、少しは近付けるだろうか。
少しは同じ世界だと感じることができるだろうか。
ここから見下ろすだけでは、人は大きくても親指サイズ。
顔の判別や文字の認識などできる訳もなく、動くジオラマを眺めている感覚。
二つの世界が裂けてしまっても仕方がない。
「承知いたしました。調達して参りますので、今しばらくお待ちください」
明烙は返事が遅れたことを感じさせない、抑揚のない声で言い、静かに部屋を出て行った。
一人残された杳は知らず知らずのうちにため息をつく。
明烙はよく話を聞いてくれるし、願えば大抵のことは何とかしてくれた。
それは今でもそうだ。
しかし、明烙には一つ大事なものが欠けていた。
杳は時折、明烙のことが仕事をこなす機械に見えてしまうのである。
悪気があって、暗い色のメガネをかけているつもりはない。
明烙は私情を表面化することは皆無、面倒な注文をしても八つ当たりをしても、嫌な表情一つせずに平然と応えてくれる。
ロボットとでも言うのだろうか。
明烙のことは大好きだけれど、私は一緒に笑いあえる友達が欲しかった。
思えば杳は、小さい頃から明烙と一緒だ。
明烙以外の人に関わることは少なかった。
そして明烙も決して己の話はしない。
杳が明烙と初めて会ったのは、六歳の冬。
しんしんと雪が降り積もる夕刻、明烙は父親と思われる人に連れられてきた。
その時の明烙は十三歳だった。
まだ無邪気な笑みで遊び呆ける年だったというのに、既にその時の明烙は真顔で大人びていた。
雪が積もる地面に膝を突いて寒くはないのだろうかと、父荻那の背から覗くように明烙を窺っていたあの時を、今でもありありと思い出せる。
明烙の存在にやっと慣れたのは、それから一月後のことだった。
明烙は人形遊びもおままごとも、やりたいことには全部付き合ってくれていたけど、それも飽くまで事務的なもの。
この言葉にはこの返事、この表情は何を期待しているのか。
明烙は自身の感情ではなく、一般的な模範解答を導き出し、答えるのである。
あの頃は相手をしてくれるだけで嬉しかったけど、今となってはそれがむなしくて仕方がない。
どうして、本心を押し隠してしまうのだろう。
杳が幼い頃からずっと一緒だったということは、明烙にとってもそうなのだ。
これほど長い時間一緒にいるのに、明烙にとってはまだ、杳のことが信用できないのだろうか。
それとも、身分の壁を前に一歩引いているのだろうか。
「只今戻りました」
音もなく開いた襖同様、双眼鏡が入っているだろう箱を持った明烙が忍者のように部屋に入ってきた。
杳は明烙に渡された茶色い箱をおずおずと受け取り、そっと蓋を持ち上げる。
「城下町の旅伴店にあったものです。品質は店主より保証されていますが、何かあればなんなりとお申し付けください」
銀の鏡筒は冷たく手の熱を冷まし、手に伝わる重さが存在を主張する。
これで町に近付けると思うと、胸の底からじわっと熱い涙が全身に染み込んだ。
明烙の横に座り、試しに部屋の隅々まで覗いてみると、戸棚や転がった書物が拡大された。
自分が小さくなったのか、モノが大きくなったのか、錯覚を起こしそうだ。
明烙の方を向くと、視界が肌色に埋め尽くされる。
そのまま城下町を見下ろせば、今度は突然視力が悪くなったかのように、視界がぼやけた。
赤い何かが映ったかと思うと、すぐに黄土色一色に染まり、また別の色が飛び込んでくる。
ピントを合わせると、この距離からは考えられないくらい、人の表情までくっきりと見えた。
さっきから見えていた黄土色は地面、飛び込んできた別の色は着物の色。
手を伸ばせば届きそうなくらい、近くにいる錯覚に陥った。
――おもしろい。
笑いながら話をする女たち、客寄せ担当の若者、はしゃぎまわる幼子。
一人一人みんな違う顔、違う表情、そしてきっと、違う未来が待っている。
遠くからでは分からなかった世界がこんなに近くに感じられるのは、双眼鏡のお陰。
双眼鏡を買ってきてくれたのは紛れもなく明烙だ。