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□木犀の契り
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 奇怪な形をした岩の聳え立つ場所があるはずだったが、そこがどこであるのか今更記憶している人はいないだろう。何年前のことだったか、確かそんな所で大きな戦があったはずだ。
 はてそれはどこの界隈だったか。だらりと桟の外に放り出した腕の先、緩く持っている猪口を眺めながら高杉は思った。映った半月が波瀾に揺れる。嘲笑われているような気がして、一気に酒を呷った。
 見上げた空に掛かるのは半分欠けた月。
 巻雲がその氷輪に紗を被せるようで、朧の狭間から漏れ出た月光は暗闇に生きる者には少々眩しかった。
 なァお前はいつ死ぬんだ。そこはかとなしに問うてみる。冷気を漂わせはじめた空気にぽつりと刹那の間だけ浮き、溶け込んでいった呟きは既に殺しから身を退いた男に届くことはない。

 秋は嫌いだ、とその男は言った。いつのことかは忘れたが、しかし彼はそう言った。自分の生まれた秋は嫌いだと、そう言った。自意識過剰になるのも大概にしやがれと鼻であしらったのだが、頭の中が甘いもので埋め尽くされているくせに中々自分という人に価値を見いだせない彼らしい解釈でもあると後々思った気がする。
 後援の坂本と右翼、左翼を固めた桂と高杉、そして先鋒の銀時。
「ニボシを食わんといつまで経ってと背は伸びないじゃよ」
 肩を叩いてきた頭一つ分は高い坂本の顔面に拳を入れてきた高杉はその日、岩場に身を潜ませ出動の頃合いを見計らっていた。身辺の隊士若干名を除けばあとの鬼兵隊は二、三人一組で近くに散在しているはずだ。小豆色の切り立った崖が日の光を鈍く反射する。悠々と流れる鱗雲から視線を下げれば前方の土煙立つ中心部に一点の白が目に留まった。
 少年の域をも抜けぬ身体つきで、顔で、鬼と見紛う咆哮を上げながら切り抜けていく。返り血の目立つ白地の陣羽織の裾を風に翻しながら後ろに退くことなど知らないそれの表情にはいつでも憎悪と悲歎と狂喜とが混ざり合っていて、不器用に繋ぎ合せたような感情の塊に高杉は少しおかしそうに口端を上げた。曇天もいいが日だまりの中の血溜まりが銀時には似合う。
「総督、」
 そろそろでは、と声を抑えて告げるのは高杉より一回りは歳の大きい男。鬼兵隊の隊士である。
 見遣れば天人の軍が崩れ始めていた。桂が右、高杉が左を錯乱し、坂本が迂回して中から撃つ。そんな坂本と数人の腕の立つ志士達は数刻前に崖の死角に隠れ回り込んでいるはずだ。先鋒の少人数部隊も体力の限界が訪れそうなところだ。確かに頃合いだろう。
 遠くへ離れる白い点を網膜に焼き付けつつ、重力を感じさせない動きで下の岩場へ着地した高杉は仲間のいるはずの崖に振り返った。
「ぉ、き、貴様はっ!」
 足軽紛いな具足を身に着けた天人の一人が叫びを上げる前に刀を引き抜きざまに首を掻き切る。噴き出す大量の鮮血を背景に高杉は喉を張り上げた。
「鬼兵隊、俺に続け!」
 水を打ったような沈黙の後には弾かれたように武器を携えた人間と天人が混じる。
 何気なしに遠方を窺えば桂の前にいた牛の頭をした大男の胴から上が崩れ落ちた。

 おかしい。どこがどういう風に、ということは分からない。ただおかしい。一薙ぎを避けることもできずにまともに受ける天人を見届け、後方に群がる固まりに視線を移しながら高杉は思った。作戦通りに敵も動いてくれるという都合のいいことなどないのは分かりきっているが、どう見てもこれは数が多すぎやしないか。
 唐突に爆発音が一帯を包み込んだ。はっと振り向いた先には幾重もの天人しかいない。
 先程部下を一人殺された。一、と数える。即死だった分苦痛は少なかったのが幸いだったかもしれない。命があるものであるならばそれの死はそれが誕生する時より酷く容易く一瞬にして起こる。交わり生を宿し育む長い時間と比べ、喉に、頭に腹に心臓、どこを刺そうと斬ろうと粘着質で執着するのが性なのか死神というものは数十秒にして迎えに来た。お前らも母が生んでくれたのだろうが。そう考えながら高杉はぬめる刀を心臓に突き刺しそれの握る匕首を左手で奪い取った。
 多い。先鋒部隊は何をしているのだと若干の苛立ちを覚えながら的確に頸動脈を切る。芋洗い状態の戦場ではむしろ短刀の方が身動きを取ることができた。先鋒部隊は…そう思い至ったところで思考が止まった。大砲の轟音が耳を劈く。それによる硝煙と土と血と錆びとの匂いが混ざりあって、臭かった。
 人の血肉で出来上がった泥濘の上にこの国の未来は立っているのか。
「煩ェ」
 小高い丘に駆けあがった高杉は辺りを見回した。桂との距離が少し縮まっている。大柄な天人の懐に潜り込み斬る桂は返り血で表情が定かではない。こころなしか薄笑いを浮かべているようにも見えた。その桂に、「高杉お前、戦場で笑うな。笑みの中に刀があるぞ」と母親面で諌められたことがあるのだが、お前も大概ではないかといつのことであるかもあやふやな過去に愚痴をこぼしたくなった。ここにこれだけの兵力が集えば坂本もさほど障碍なく進めるだろう。しかしいなかった。血に染まる白が、温かな銀がいない。銀時が、前に進むことしかできない白夜叉が、いなかったのだ。
 ピリリと左腕に痛みを感じ、一瞥を遣れば籠手の上部から肩まで裂けている。戦場に取り残されたのは使えない人間と、天人と、死骸。
 秋は嫌いか。自分の生まれた秋に人が死ぬのが嫌いか。



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