長編・シリーズ

□君を繋ぐ音楽
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年が明けて、香穂子は祖父母の住む街に引っ越した。
何かの為に加地と理事長には連絡先を知らせておいた。
そして…季節が春から夏に移ろうとする頃。
香穂子は蓮にそっくりの男児を出産した。
少し遠い場所での出産だったので、産まれた時に付き添っていたのは祖父母だけだったが、両親は駆け付けて、産まれた子供を見ながら、目を細めてくれた。
「綺麗な顔立ちだこと。…お父さんに似たのかしら」
母親のそんな指摘に香穂子はドキリとする。
そして、それ以上に嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「そうね。…私に似たら十人並みだから」
「…それを言ったら私の立場がないじゃない?」
両親と香穂子は可笑しそうに笑った。
そして、ふと思い出したように、父親が尋ねた。
「この子の名前は決めたのか?」
香穂子はこくりと頷いた。
「『蒼』よ」
「そう?」
「うん、この空のように蒼く澄み渡った心を持ってもらいたいなぁって」
「成る程ねぇ」
両親は納得したように頷いた。
だが、香穂子にはこの名前をつけた、もう一つの意味を考えていた。
空のような青。それはこの子の父親が、蓮が好んだ色だ。
今はまだ会う事ができない、父親を、側に感じていてほしい。
香穂子は腕の中ですやすやと眠る蒼を見つめながら、願ったのだった。
…早くこの子と彼が出会えますように、と。
そして、香穂子はその為の努力を、退院したあとすぐに始めた。
とにかく近くにある音楽大学に一発で合格出来るように。
理事長がいくらか口利きをしてくれると言ったが、それでは入学後、苦労するのが目に見えている。
だから、誰にも文句を言わせない実力を身につけた。
そして、無事合格。
学業と育児そして、将来の貯蓄と大学の費用を賄う為のバイトと、せわしない日々を過ごした。
だが、大学の友人や、師事した講師に恵まれ、多忙の中にも、充実した日々を送った。
ただ、その中には蓮に連絡を取る、というものはなかった。
…まだ会えない。手紙やメールや電話をしてしまえば、つい、言ってしまいそうになりそうで、香穂子は携帯を変えてしまった。
そこまでしなくていいのに、と加地に言われたが、そこまでしないと、自分のたてた誓い―蓮が夢を果たして日本に帰ってくるまで、この事を黙っているという誓い―を破ってしまいそうだったから、香穂子は徹底して連絡を絶った。
国内のコンクールもいくつか受け、それなりの成績を出していた香穂子は、大学卒業後、恩師のくちぞえで、その街を中心に活動し、国内ではそこそこの規模のオーケストラ楽団に入る事が出来た。

だが、その入団が、香穂子の音楽を大きく狂わせる事になるとは、この時は思いもよらなかったのであった。
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