長編・シリーズ

□君を繋ぐ音楽
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それからの一週間は、これが本当の目の回るような忙しさなのだ、とつくづく実感してしまう位、香穂子達は多忙を極めた。
コンサートのリハーサルやら、新しい生活の準備やら。
土浦から誘われたオーケストラの準備も本格的に始まり、その中で香穂子はすっかり忘れていた。
…蓮から婚姻届を受け取るのを。
そして、いよいよコンサート当日となってしまった。


市民ホールの楽屋で、香穂子は出番まで待機する事になっている。
先日の創立祭コンサートの時とは違う、空色のロングドレスに、今日の為に蓮が用意してくれたコサージュを付けて。
先程まで一緒にいた蒼は、母親の美しい姿に、目を輝かせていた。
「お母さん、綺麗」
「ありがとう、蒼ちゃんもかっこいいわよ?」
グレーのズボンに、紺のブレザー。赤のネクタイを付けた姿は、やはり父親によく似ていた。
…それにしても。
と香穂子は思った。
確かに蒼には初めての本格的なクラシックコンサートで、両親の出るものではあるが、めかし込み過ぎていやしないか?
今日は香穂子自身が多忙な為、香穂子の両親に蒼の仕度を頼んだのだが。
…そこまで畏まらずにしていていいのに。
思えば両親も、とても着飾っていた。
それこそ、この後誰かの結婚式に出席するかのような。
その時ふと、香穂子は考えてしまった。
…うちに両親が揃って参加するような結婚式をするような親類はいただろうか?
香穂子の家はそんなに親類縁者がいるほうではない。
香穂子がすべてを知っている訳ではないが、普段の会話からもそんな話は漏れ聞こえては来なかった。
…はて?
香穂子が深く考え始めた時だった。
楽屋のドアがこんこんとノックされた。
「すいません、そろそろ時間なので、よろしくお願いします」
スタッフのそんな声がドアごしから聞こえてきた。
「あ、はいっ」
香穂子はそこで考え事が中断されてしまった。
…ま、私が知らないだけでしょ。
そんな暢気な結論を出して。

香穂子が舞台袖まで来た時、舞台では蓮が最後の曲を演奏をしていた。
…相変わらず凄い人だな。
いつも香穂子の前にたち、香穂子の目標となり、香穂子を導く人。
いつかは追いつきたい、その高みまで登りつめ、共に同じ世界を見てみたい。
そう思わせる人。
香穂子は演奏に聴きいりながら、少しだけ焦りを感じていた。
ほんの少し躓いたせいで、ヴァイオリニストとしての距離はまた離されてしまったような気がする。
だけど、…今はそれはそれとして考えていた。
ほんの少し回り道をしてしまったが、それは香穂子を成長させるのには必要な事、だったのだ、と。
そして、そんな事を考えているうちに、蓮は最後の曲を終え、舞台袖に入ってきた。
「お疲れ様」
香穂子がそう話しかけると、蓮はふわりと笑った。
「次は君も、だ」
そう言うと、蓮は香穂子に手を差し延べた。
「…行こう」
「うん…」
香穂子は蓮の手に自分のそれを添えた。
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