長編・シリーズ

□君を繋ぐ音楽
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5.呼ばれる名前

『…話がしたい』
蓮にそう言われた時、香穂子の胸は高鳴った。
…まだ間に合う?まだやり直す事ができる?
あの時、香穂子に向けられた視線、暗い中でも甘く輝いていた。
…彼は私の過ちを赦してくれるのだろうか。
そんな事を考えていると、夜も眠れなくなり、結局そのまま朝を迎えてしまった。
そして、学校に向かう蒼を見送った時、蒼は笑顔で香穂子に言った。
「お母さん、頑張って」
一体何を頑張るのか。
香穂子にも分からなかったが、子供なりに二人の間の事を心配しているのだろう。
…昨日蓮に送られて帰ってきた時から、蒼の様子が変わった。それはいい方向に。
まだ幼いというのに、どこか諦めの様子を見せ、父親の話をすることを嫌がっていたのに。
今は憑き物が取れたように、子供本来の明るさを取り戻し、楽しそうに父親の話をするのだ。
「お父さんと練習する曲、どれがいいかな?」
夕べ、寝かしつけようと、香穂子が蒼の頭を撫でているとき、そんな事を言い出したのだ。
「そうねぇ…」
香穂子が考えるような仕種をすると、蒼は嬉しそうに喋りだした。
「今日ね、お父さんのヴァイオリンを初めて生で聴いたんだよ。すごく、すごくかっこよかったんだ」
「…そう…」
「僕もいつかああいうふうになりたいなあ」
夢みるように蒼が言うのを、香穂子はそっと微笑みながら聞いていた。
一体今日、二人の間にどんな事があったのか、香穂子は知らない。
だけど、それは良い結果をもたらしたのは間違いない。
だから、今朝も、蒼は『頑張れ』の次にこう言ったのだ。
「お父さんと早く仲直りしてね」
と。
それは息子から父と母へのメッセージだ。
蒼にとっては、香穂子も蓮もどちらも大事で、どちらも欠けてはならないのだ。
だから、これからの道のりを三人で歩んでいける事を願っている。
香穂子もそうしたい。
では蓮は?
蒼を送ったあと、母の手伝いで家事をこなしながらも、頭の中でずっと考えていた。
そして。
「私、ちょっと出掛けてくるね」
一通りの家事をこなしてしまうと、落ち着かなくなってしまい…、外出する事にしたのだった。

何をするでもなく、駅前まで来た香穂子は、行きつけの楽器店に入った。
なんだかんだいっても、音楽関連の場所にいる事で、香穂子の気持ちは落ち着いてくる。
つらつらとCDや楽譜を確認していると、『アヴェ・マリア』の楽譜を見つけた。
…考えてみれば、これが全ての始まりだったような気がする。
この曲の楽譜をリリから貰った時から、ヴァイオリンとも、…蓮との出会いも。
もし、あの時、リリに出会わなかったら、今、自分はどんな事をしていただろうか。
香穂子がそんな事を考えながら、『アヴェ・マリア』の楽譜を購入していると。
「香穂先輩?」
背後から声をかけられた。
慌てて振り向くと、そこには冬海が立っていたのだった。
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