長編・シリーズ

□長い冬の後に君と
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(5)All Cast

その音色を聴いて、蓮はそれが誰のものかは一発で分かった。
だが、その考えが正解だという確信が欲しいように、蓮は尋ねた。
「…これは香穂子の…音色か?」
「だと思います。屋上からみたいなんで。ここまで誰もすれ違わなかったから、日野さんだけがいらっしゃるかと…」
「そうか、ありがとう」
「え?あ、は、はい」
蓮はかなでが頷くのももどかしいように、礼を述べるとかなでの脇を駆け出していった。
慌てなくていい。この先に彼女は確かにいるのだし、屋上から下に降りてくるなら、この階段しかないのだから。
だけど、この音色は、どこか蓮を掻き立てるものがあった。
…この音色が途切れる前に、彼女のもとにたどり着かなければ、と。
何故そんな事を考えてしまうのか、蓮にも分からない。だけど…そうしなければいけないと思わずにはいられなかった。…そうしなければ、香穂子を再びこの手に抱きしめる事が出来なくなってしまうかもしれない。そんな焦燥感からだろうか。
…いや、違う。
蓮は階段を駆け登りながら、その考えを否定した。
…そんなネガティブな発想からではない。
一人の音楽家として、こんな豊かな音色の持ち主が誰であるか…彼女であるか、確認したくて堪らなくなったのだ。
勿論それだけではない。
…この音色が自分を誘うのだ。…私はここにいます、と。捕まえにきなさい、と…自分に向かって話し掛けてきているかのように聴こえたのだ。
だから…捕らえに行く。
一人の音楽家として、この聡明なヴァイオリニストを。そして…彼女を愛して止まない一人の男として。
屋上への入り口までたどり着き、蓮は深呼吸しながら息を整えた。
そして、自分のケースからヴァイオリンを取り出すと、彼女の演奏を中断させないように、息を殺し、そっと扉を開く。
…いた。
眩しい太陽の下、輝く音色を気持ち良く奏でている姿を確認すると、蓮は再び深呼吸をして、そっとヴァイオリンを構えたのだった。

…一方、普段は冷静沈着な蓮の慌てた様子を見てしまったかなでは、目を丸くしながら見送ると、楽しそうに笑った。
…どんなに年齢を重ねても、恋をすれば誰もがあんな風に盲目になるのだ、と。
「…ちょっと羨ましいかな」
誰かにそこまで想われている香穂子を。
…いつか自分もそういう相手が見つかるだろうか。
そんな事を考えながら、かなでは再び階段を降り始めた。
「あ、そうだ響也に電話しなきゃ」
さっきのどたばたですっかり忘れてしまっていたが、かなでは響也の居場所を確認しようとしていたのだ。
かなでは慌てて携帯を開き、響也に電話しようとした。
と、その時。
「かなで、こんな所にいたのか?」
再び不意に声をかけられた。
「あ、響也」
「良かったよ、ちょうど探しに行こうと思っていたんだ」
「あ、私も響也がどこにいるのかなって…」
かなでが少しだけ俯き加減になりながら答えると、響也は安堵したようにほっと息をついた。
「…少し話しよう」
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