ペダル

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俺がこんなにもおめさんのことばっかり考えているなんて、きっと思ってもいないんだろうな。
顔を合わせれば、おはよう、お疲れ様、おやすみって声をかける。返事は返ってくる。俺が大好きでたまらないあの笑顔と共に。それだけでずいぶんと嬉しいもんだがやっぱりもう一つ、二つ、足りないと思う気持ちは距離感から来るものだと思う。俺が距離を詰めようとすると(物理的にも精神的にも)みょうじさんは凄い回転数で離れていく。照れた顔もとても可愛いからつい、からかいすぎると照れて逃げたあとにこちらの様子を伺う様はウサ吉みたいで、また俺は彼女に夢中になっての悪循環だ。
俺が思っていたよりもずっと、ずっとみょうじ名無しさんという山は高くて険しかったらしい。スプリンター殺しか、そうなのかおめさんは…なんて頭を抱えているばかりでは何も進んでいかないのは明白だから、ここら辺で一回勝負に出たい所だ。

「今週の日曜日、おめさん暇か?」

「日曜日…ですか?」

あ、そうだこれだ。敬語も止めてほしいなぁ。こないだ言ったら努力しますなんてはぐらかされて、また戻ってるからここはまだ我慢か。
昼からレースがあること、良ければ来てほしいと伝えると二つ返事でOKをくれた。

「来てくれつっても、あれだけどなレース中はほったらかしになっちまうけど…おめさんに一度見てほしいんだ」

「新開さんがこの子に乗ってるところかっこいいんだろうなぁ」

俺の相棒に触れながら女子にもモテモテですねってこっちを見る無邪気な表情にやられそうになった。ほんと、さらっとこう言うことを言ってくるから質が悪い…あーロードになりてぇな。


****


日曜日、楽しみにしてますねって嬉しそうな顔を見せてくれたみょうじさん。そして今日は本番。会場についてアップも一通り終え、周りをキョロキョロと見渡してみるけれど彼女の姿が見当たらない。
小さいから埋もれてるのか?とも思ったけど、さすがにそこまでぼーっとしてないよなきっと。

「どうした新開、何かあったのか?」

「悪ィ寿一、俺ちょっと抜ける。まだ時間あるよな?」

「あぁ、30分後までにスタート地点に戻ってこい。」

さぁウサギさん、かくれんぼ開始だ。
とりあえず人混みを掻き分けてスタート地点付近を見渡してみるがやはり彼女の姿はない。身長はけっして低い方ではないが、人探しをするにはあと10センチあれば有利だったなとぼやいても急に身長が伸びるわけでもない。
屋台で何か買ってるのか?それとも木陰で避暑か。どれもこれも可能性はあるが決定的ではない。さて、どうしたものかととりあえず駆け足で探し回ってみると

「ひ、人を…待ってるので…っ」

やっぱり俺はみょうじさんのことが好きみたいだ。あんなに小さな声だってのにおめさんの声だけやけにクリアに聞こえんだよ

「え?人って何ー?彼氏とか?だって、君ずいぶん長い間一人でいるよねーそんなひどい男止めてさ、俺と」

「待たせて悪ィ。寂しかったか?」

彼女の手を掴もうとした男の手をがっしり掴みみょうじさんを背中に隠す。お前なんかにこんなに可愛い彼女のこと、見せたくねんだ。震えた手は俺の上着の裾をそっと握りしめてきて、こんなありきたりな展開を予想できなかった自分に腹が立った。怖い思いさせてごめんなみょうじさん。
ジロリとひと睨みすれば「なんだ、本当だったのかよ」って悪態つきながらあっさり立ち去る男を見て正直ほっとした。さすがに大会会場で、レース前に喧嘩はまずい。

「しんかいさ、ん…」

目は潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうだ。抱き締めたくなる欲望と必死に戦いながらも上着に回されたままだった両手をそっと包み込むところで我慢した。

「おめさん、友達と来るって言ってなかったか」

その一言があったから、俺は来てもらえるようにお願いしたんだ。もし一人でもそれなりの対応をして結局来てもらっただろうけどな。目の前のウサギは俯いていた顔を上げて、何か言いたげに口を開こうとして閉じる

「あの…ごめんなさい。一緒に来る子、急用で来れなくなっちゃって…ご、ごめんなさいレース前にこんな、ご迷惑を…」

辛抱強く待ってみれば謝罪の言葉が紡がれてくる。元はと言えば俺が誘ったってのになんでみょうじさんが悪い雰囲気になってるんだろうか。

「俺の方こそ悪かったな…もっと早くに探せばよかったんだ。ごめん、何もされてないか?」

怖がらせないように、慎重に。包み込んだ手をキュッと握ると目を瞬かせる。

「助けて頂くの二回目、ですね。新開さんはヒーローみたいです。ありがとうございました。」

あぁそれだ。花でも咲かせそうなくらいの眩しい笑顔が心臓に悪いんだ。すっげえ好き。

「まだ時間あるから、スタート地点までのんびり歩こう。そんで、その後は俺の目の届くとこで観戦してくれよ。」

「新開さんの目の届く範囲、ですか?」

「あ、レース始まったらゴールまで先回りしててな。今日は俺が一番獲るから」

自慢の優秀なエースさんが今日はアシストやってくれんだと。寿一は俺が今日勝ちたいこと知ってたようで彼女が関わるとどうやら自分はかなり分かりやすいらしい。ぎゅっと握ったままの手はそのままに二人で歩く時間はとても楽しかった。




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