ペダル
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名前で呼ぶようになった。少しだけ距離が縮まった気がした。
「名無しさん、おはよ」
「おはようございます。新開さん」
だけどなんだこの距離感は…と頭を抱えたくなるほどに彼女はペースを崩すことがない。まだ埋まらない距離がもどかしい。
とりあえず敬語を止めてもらうところからスタートか
「それ、くせなのか?」
敬語。って付け足すときょとんとした表情の名無しさんに、ついこのままでもいいかもと思ってしまうけどやっぱり敬語はないほうがいい。縮めようとしても彼女は全くペースを乱さないのだからこちらから動いていくしかない。
「別に、癖というわけではないですよ?でも新開さんてなんだか大人っぽい…って言ったら失礼かもしれないですけど、えと、年下だとおもえなくって…ごめんなさい」
しゅんと落ち込む姿を見るとつい許してしまいそうに…あーだめだだめだ許さない、許しちゃいけないぞ新開隼人
「できれば、俺は敬語なしが嬉しいけどな」
にこり笑顔付きでお願いをしてみると目線を反らして考え事。しばしの沈黙の後に頑張りますって苦笑する彼女が可愛くて可愛くて、朝からこのまま家にテイクアウトしたくなるほどだった。そんな俺の邪な思考を読まれたのか、はたまた小動物の野性的感で身の危険を察知したのかちらりと時計を確認した彼女はハッとして、
「あ、もうこんな時間。それじゃあ、またね新開くん。」
この子可愛すぎるズルい。突然の敬語抜きにまた心臓をばきゅんと撃ち抜かれた。
呆然としてしまいバタバタと居なくなる名無しさんにあいさつも出来ずにただただ見送ることになってしまった。
「あー、反則だろ…」
本当は隼人くんが良かったなぁなんて考えに至るまでかなりの時間を要したのは秘密で。
***
なぁ、寿一。確かに俺は敬語なしで名前で呼んでほしいって言ったけど、誰がこんなこと予想できるかな?昼休みに静かに話を聞いてくれるからっておめさんにずっと相談してたバチが当たったのかな…
お願いだ俺の理性が飛ぶ前に誰か俺を殴ってくれ止めてくれ
「あ、はやとくんだ」
部活が少し長引いてしまって、いつもより少し遅い時間にいつもの道を通る。名無しさんに会えないのならわざわざヴェロを手で押す必要もないのでまたがって漕ぐ。あと数分で家に着くというところで道路を歩く男女を発見
見覚えのある後ろ姿に、なぜこの人が男と歩いているのか考えをめぐらすだけで頭が割れそうに痛い。
そんな俺の考えを知ってか知らずがへにゃりと微笑んで此方を見る彼女はとても上機嫌で。あろうことか俺の名前を呼んできて…
すると男の影になっていたのかもう一人一緒にいたらしい女性がこちらを見て瞬いた後に一言
「あ、あなた名無しさんの知り合い…?」
「あ、はい。失礼ですが…」
おめさんたちは誰なんだ?という意味を込めて。一応年上だろうし敬語は忘れずに。
いやあ本当に男と二人きりじゃなくてよかった。本当に…どうにかなってしまうかと思ったよ。
「私たちはこの子の同僚よ。この子ったらお酒強くないのに間違って飲んじゃったみたいで…でも名無しさんにこんな素敵な彼がいただなんてビックリ。この子おとなしいでしょ?だから私たち色々心配だったの。あ、こいつは私のだから。名無しさんのじゃないから心配しないでね?」
「待て待て。彼が困ってるから、お前はちょっと落ち着け」
このままどこまでも話し出しそうな女性にストップをかけた彼は此方を一瞥した後に俺に名無しさんとの関係を問いかけてきたが残念ながら今のところはただの隣人だろうか。少し仲は良いかもしれないけれど。
「どちらにしても同じ方向ですし、いつも時間が合うときは一緒に帰っているので俺が連れて行きますよ?」
にこりと人好きのする笑顔を見せればまぁ断られることもない。
***
と、ここまではよかったんだけど…
「はやとくん、はやとくん。あのね、こないだとってもかっこよかったよ」
とっても早くって、かっこよくて、びっくりしちゃった。
ちょっと待ってくれよなんだこの可愛い生き物は。
ヴェロを押す俺の隣を少しおぼつかない足取りで歩くからついつい腰を腕で抱く形になってしまったけどこれは不可抗力だ。そうでもしないと転びそうなんだよおめさんは
「やっぱりがっちりしてるねはやとくん。」
これがもしも彼女が気を許した時の姿だとしたら、彼女が俺のことを好きになったら常にこの姿を見れるということだろうか。恐ろしい…理性がもたないぜ。
マンションのエントランスについて鍵を開ける。名無しさんにカバンの中から鍵を出してもらい彼女の部屋へ。
初めて入った部屋は彼女のにおいでいっぱいだった。この時点でかなりクルものがある。
「はやとくん、ありがとう」
「あぁ、ちゃんと鍵かけて着替えてから寝るんだぞ?」
「ふふ、お母さんみたい。はやとくん、苦しいよ?」
中に入っては本格的に止められない気がしたので、申し訳ないけれど玄関先で名無しさんを開放する。こんなチャンス二度とこないかもしれないと思い、最後にそっと抱きしめておくことは忘れなかったけど。自分ではそっとしたつもりが、苦しいと言われたのでなかなかの力で抱きしめてしまったのかもしれない。
けらけらと笑うその唇を自分のそれで塞いでしまいたい衝動をグッと抑えることができた俺に拍手を送りたいなと心の底から思った夜だった
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