恋物語最終章・秘めた恋心

□1話 違和感
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「あー、もう!」
 悪態をついたのは、起きた時間に問題がある。
「17時15分て! 遅刻だー!」
 焦りの言葉だけが、食器を洗い終わったリビングにむなしく響き、17時25分頃にマンションを出た。


「不機嫌だね〜、黒崎。ていうか遅いよ?」
 上靴に履き替えて昇降口のロビーに踏みこんだ時、職員会議を終えた黒縁メガネ姿の猿飛先生が、いくつかのファイルとエンマ帳を片手に行く手を余裕の表情で防いだ。大病で一年入院して卒業できなかったあたしは、定時制に入りこみ、卒業する前の3年生だったこの人を知っている。あれから四年が経ち、こうして先生と生徒という関係になっていた。
「通せんぼするな、猿飛先生。遅刻する!」
「だ〜め。どっちにしても、遅刻決定だから」
「ダッシュで行けばなんとか…」

 きーんこーんかーんこーん…

 必死の弁明もむなしく、予鈴のチャイムが校舎内に響き渡る。
「ほらね。遅刻の罰として、俺様のデコピンくらっとく?」
「いやいや、先生が通り道防ぐからでしょ」
「遅く来るほうが悪い」
 デコピンの構えをした先生に、額だけでなく顔全体を両手で隠したが、今までとはまったく違う反応を受けた。

 かぷっ

「ひゃっ!?」
「その反応かーわいー。ねえ、もっかいしていい?」
「だめ! ヘンになる!」
 耳を甘噛みされて脱兎のごとく逃げ出すが、追いかけてくる。残念なことに、この化学教師は定時制の担任なのだ。
「はーい、みんな席に着いて。大津。黒崎、遅刻ね」
 今日の日直に告げて、自分の席に腰を下ろした直後に、ホームルームが始まった。
「文化祭はいつも通り9月の予定だけど、案は今日が締め切り。午後を丸々使って案と出さないと、何も出し物がないヤバい状態になるから。あと、1時間目は自習に変更〜。じゃ、これでホームルームは終わり!」
 さっさと担任が教室から出て、それぞれが動き出した。
 どこかの企業のパンフを出す人。就職の面接の練習を前後の席でやり始める人。机に突っ伏して少しでも寝不足を解消する人などなど。気がつけば、もう放課後になっていてバスケの練習も終わっていた。
「ふ〜」
「お疲れさま。キャ〜プテン」
「うわっ!?」
 部室を閉めて職員室に鍵を返しに階段を降りようとした矢先に、後ろから声をかけられた。驚きのあまり足を踏み外したが、つんのめって転げ落ちることはなかった。
「…あれ?」
「あっぶね〜」
「お前、なにしてんの?」
「先生に向かって『お前』って言い方はないでしょ? あ、もしかして罰が足りなかった?」
「じゃなくて、この状況」
「腰細いね〜。ちゃんと食べてるの?」
「人の話聞けよ。放して」
「はいはい」
 密着から解放されて、立ち上がるために左手に体重をかけた時に、ぱきんと何かが壊れる嫌な音がした。そこから手を退けると、しっかりメガネが割れていた。
「あ…、ごめん。大事なメガネ壊した」
「いいよ。伊達メガネだから。それよりケガしてない?」
「え…」
 ぐいっと強引に左手を確認する彼の心配顔が、窓から差しこむ夕日色の光に照らされた。

 どくんっ

 心臓が大きく跳ね上がったと同時に、鋭い頭痛に襲われ、思わず顔を歪めた。初めてこの表情を見るのに、頭の中の情報が『見たことがある』と告げていた。
「よかった。どこも異常なし。新聞部の仕事しっかり手伝ってね」
「…わかった」
「物わかりのいい部員持って、俺様大感激〜♪」
 女バスの他に新聞部を掛け持ちしているが、新聞部顧問が猿飛先生なのだ。
「夜道は危ないし、俺が送ってくよ。頭痛がするんだろ? 先に待ってるから」
「………」

 本気で心配している顔。
 有無を言わせぬ物言い。
 『待ってるから』という言葉。
 知ってる。
 見たことも聞いたこともある。
 でも、いつ、どこで?
 こんなこと、一度もなかったのに…!

 不安になるくらいの違和感と胸のざわつきは、収まるどころか増していく。
 自分が自分じゃないような感覚に襲われて、彼の姿が見えなくなってから自分の肩を抱いて、
「…っ。怖いっ」
 生ぬるい床にぺたんと膝を落とした。その拍子に鍵が音をたてて、それを返しに行くことを思い出し通学鞄を手に立ち上がって走った。
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