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□気持ちの名前
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「ヒノエ、」
ちらりと鮮やかな着物が目に入ってすぐ傍らにヒノエがいたことに気が付いた。
「何だい夏目」
「いやびっくりしたんだ。いたのか」
「ああ、いたさ」
ヒノエは腕組みをしたままじっと動かず、おれもそのままじっと立っていた。
「ずっと?」
と問えば
「お前には見えているはずだろう」
とさも当然のように答えが返ってきた。
「…うん、そうだな」
おれは自分の気持ちを打ち消すように笑う。
「私が見えなかったのかい?」
「いや」
ヒノエから目を離して正面に続く道へと視線を移す。それは決して意識的なものじゃなくて、気が付けばそうしていたというような無意識のものだった。
「いや、見えていたんだ。きっと見えていた。でも目には映っていても気が付かなかったんだ」
いつも悩まされていた。見えたくないものが見える。それがおれの人生の全てを乱しているなんて考えたこともあったのに、時々こんな風に気が付かないなんてことが起こるようになっていた。そしてその原因が、周りから妖力と呼ばれるおれの力が弱くなっているからではないということを何となくではあるがわかっていた。それはその力とは何ら関係のない、おれの心の内だけで起こっている。
「あの人間と居たからかい?」
見えなくなった背中が浮かんだ。振り返って「夏目くん」と手を振る姿に胸がまた焦がれる。
「可愛い娘だね」
思わずヒノエの顔を見上げる。
「何だ変な顔をして」
「ヒノエが人をほめるなんてめずらしいからさ」
一瞬ヒノエはおれを見て、ゆっくりと目を閉じた。俯くとまとめた髪の毛先がふわりと浮いた。静かに口角を上げて微笑むと顔を上げる。さっきおれがそうしたように、ヒノエもあの道へと視線をやった。
「妖だって人だって、美しいと思うものは同じだろう」
アーチのように続く並木道。初夏の緑が太陽の光で地面に影を落とす。その影さえも緑に染めてしまいそうに眩しい色だとおれは思う。
「そうか…そう、だな」
人なら解り合えるはずなのにとずっと思っていた。同じだからそれが当たり前なのにと悔しかった。でも違うんだ。人も妖も、解り合うには何かをしなくちゃいけない。そのための努力をしなくちゃいけない。綺麗なものが同じならきっと、傷つくのも同じなんだ。多分、おれは知らないうちにたくさんの誰かを傷付けていた。人も、妖も。おれだけが不条理に受けた傷なんて本当は、ずっとずっと少ないんだ。
「あの娘が好きかい、夏目」
「…どうかな」
視界が歪むような気がして何度か瞬きをして息を吐く。
「素直じゃないねえ」
「わからないんだ、本当に」
この思いが何なのか、どこからくるのか、わからない。どうすればいいのか見当もつかない。名前すら知らないんだ。こんな気持ちになったことなんて、生まれて一度もなかったから。
「名前なんてどうだっていいじゃないか」
その言葉でおれはヒノエを見たけれど、ヒノエはおれを見なかった。
「大切なら大事にすればいい。一緒に居たいのなら居ればいい。それだけのことだよ」
光に目を細めるようにヒノエが笑った気がした。でもその顔が泣き顔に似ていたから、おれの胸は詰まった。詰まって何も言えなかった。
「人の時間は短い。でも夏目とあの娘は同じ時間を生きていけるのだからね」
ヒノエと初めて会ったあの日、レイコさんの死を聞いて涙を落した彼女を思い出した。ヒノエが人間であったなら、レイコさんが妖であったなら、そんなことを考えた日がヒノエにもあっただろうか。
遠くで鳥の声と車のエンジンの音がする。優しさに触れる度に、日常の何てないことが胸に落ちてくる。
「ヒノエ、おれの心を覗いたな」
冗談めかして言うと、ヒノエはいつもの顔に戻った。
「弱さを見せるからさ。勝手に見えてしまうんだよ、仕方ないだろう」
飄々という表現がぴったりないつもの口調。
「人は弱い、夏目は弱いねえ」
声を上げずに笑うヒノエの言葉に、ひとつだけぽかりと疑問が浮かぶ。
「ヒノエは、レイコさんの心をみたことはあった?」
野暮だね、と今度は声を上げて笑った。女の心の内を訊くなんて、とからかうような声を出す。恥ずかしくなったおれは今のはなかったことにしようと反応しないでいるとヒノエは続けた。
「でも、でもどうだったろう。見えた時もあったのかもしれないね。気が付かなかっただけで、本当は見えていたのかもしれないね」
冗談とも本気ともつかないままの声色だった。でもそこには、上手に隠されたヒノエの本心があったようにおれは思ったんだ。
気持ちの名前
あの子はとても強かった。強かったから、いつも私は忘れてしまったんだ。彼女が人であることを。人であるならば、レイコが強いなんてこと在りはしなかったのに。
だから耳を澄ましてしまうんだよ。今度こそは、と。
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