らーぜ
□拍手
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雨の日だけ会える人。
背が高くて坊主頭の男の子。大きなスポーツバッグは野球部の証。高校生の頃は野球部の子って苦手だったけど、何だかあの子だけは気になってしまう。
ホームに滑り込んできた電車のドア越しに見える彼。それだけで意識をしてないと緩む口元。ドアが開けば、端に座った彼と目が合って。一瞬だけど確かに私は彼を、彼は私を捉えていた。
勇気を振り絞ってゆっくり彼の元へと歩く。
「あの、隣いいですか?」
雨が降って、初めて目が合って、そして彼の横が空いてるのを偶然だなんて思いたくなくて。
「あ、どうぞ」
サラリーマンと彼の間に座ってから、とても自分が大胆なことをしたように思えてきてどきどきが止まらない。隣にはいつも見てたあの子。そうだ、さっき初めて話したんだ、なんてやっと気付く。もっとちゃんと声聞いとけばよかった……。
彼は思ったよりずっと大きくて逞しくて男の人で、さらに心臓は速く打つ。膝の上に置かれた手は大きくてごつごつしてて、ちらりと覗く平にはマメが見えた。頑張ってる人の手、と自然に顔がほころぶ。その途端愛しさが溢れて触れたい衝動に駆られる。
あの手に包まれたらどんなに幸せだろう。
彼と一緒の数駅は長いような短いような。何を考えても――もちろん今は彼のことしか考えられないけれど、それでも――電車のゆれで体のどこかが触れたりなんかすると、どきどきは速まって何も考えられなくなる。
彼のことを想って、その彼が隣にいる事実がたまらなく幸せで、どきどきして、それをくり返して時間は過ぎて。
私は彼がどこで降りるのかを知っている。駅に近づくにつれてどきどきはチクチクに変わって、息もつけなくなってしまいそうなほどの切なさが襲う。
彼が席を離れてドアのところに立つ。隣の空いてしまった席が、ドアの前の彼の背中が、現実を見せ付ける。
どんなに近くに居ようが座ろうが、それはただの物質的な距離でしかない。
私と彼は他人なんだと。
ゆるいカーブに合わせて電車が揺れる。
次に雨が降るのはいつだろう。明日、降ればいいのに。明後日も降ればいい、その次だって。
カタン、という音にはっとして足に触れたものを見る。青い傘。
きっと、ううん、絶対あの子の傘。
電車のドアが開いて人が降りていく。私は何も考えず、その傘を掴んでドアへと走った。
「待って!」
後ろ姿がさっきよりも近く思える。振り向いた彼の驚いた顔。
「忘れ物!」
音もなく閉じるドア。その気配を背中で感じた。振り返ればのろのろと動きだした電車が遠ざかっていく。
「行っちゃった…」
けれど胸に残るのは安堵。
「すいません、降りるのここじゃないっスよね?」
「あ、や、大丈夫です。次のでも平気だから」
申し訳なさそうな彼を前に無意識に笑顔が出た。私から彼へと傘が渡る。
「ありがとうございます。……あの、でも、傘」
「あー…忘れちゃったみたいです」
言われて初めて自分のを忘れたことに気付く。恥ずかしくてたまらない。
「よかったら俺の」
「や、悪いですそんなの!私の100円だし」
私が勝手に暴走したのに、そんな。届けた意味がなくなっちゃう、そう思ったけど彼は気が済まないみたいで。
「あの、じゃあ…近くのコンビニまで入れてもらっていいですか?」
「え?」
「そこで傘買うので……どうでしょう?」
本当は傘なんてどうでもよかった。降りる駅でも買えた。でも嬉しくて、ただ幸せで。
「あ、はい!全然いっスよ!」
彼も嬉しそうに笑うから、私の言葉ひとつひとつに反応するから、また私は嬉しくなる。
「ありがとう」
他人からの脱出。
悲しかった切なかった現実は楽しい幸せな現実へと姿を変える。そして気になる、は恋へと。
どうぞ、と開かれた傘はふたりには狭くって、並んで座っていたときよりもぐっと近くなったのは距離だけじゃない。
雨音の中、
『あの、名前、聞いても』
いっスか、と消え入るような声を聞くのは数秒後のこと。
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